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「京(みやこ)のファンタジスタ」~若冲と同時代の画家たち ②嵯峨嵐山文華館

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美しい自然が多くの貴族や文化人に愛され、すぐれた芸術を生み出す源泉となった嵯峨嵐山。この地で、18世紀の京の都で活躍した画家たちと彼らに大きな影響を与えた画家たちの作品を一堂に会した展覧会が二つの美術館で開催されています。近年特に注目を集めている伊藤若冲を中心とした個性豊かで豪華なラインナップの展覧会は、見ごたえ充分。渡月橋にほど近く、周囲の美しい自然と絶妙に調和した二つの美術館とともにご紹介します。今回は嵯峨嵐山文華館です。

 

 

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京(みやこ)のファンタジスタ若冲と同時代の画家たち

 

伊藤若冲が活躍した18世紀の京都は、絵画と俳諧の二つの分野で才能を発揮した与謝蕪村、日本において文人画を大成した池大雅、写生を基本とした革新的な画風を確立した円山応挙、人々を驚嘆させた奇抜な画風の曽我蕭白など、個性豊かな絵師たちが群雄割拠していました。彼らは互いに交流し、影響をうけながらそれぞれの画風を確立していきました。この展覧会では、若冲と同時代の画家たちの作品を展示し彼らの絵の魅力に迫ります。

会期:2021年7月17日(土)~10月10日(日)

会場:第一会場:福田美術館 https://fukuda-art-museum.jp/   第二会場:嵯峨嵐山文華館 http://www.samac.jp/

開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30)

休館日:火曜日(祝日の場合は翌平日)

 

入館料など詳細は各美術館の公式サイトからご確認ください。

 

 

嵯峨嵐山文華館とは

藤原定家小倉百人一首を選んだ地、小倉山のふもと、嵐山の渡月橋の近くに、百人一首をテーマとした展示、振興のために2006年に開館した「百人一首殿堂 時雨殿」を改装し、2018年11月にリニューアルオープンしたのが「嵯峨嵐山文華館」です。こちらは小倉百人一首の歴史やその魅力と、日本画をはじめとする京都ゆかりの芸術・文化の粋を伝えるミュージアムとして開館されました。

 

建物は一階、二階が展示スペースとなっており、一階は常設展示「百人一首ヒストリー」と企画展スペース、二階は企画展を開催する120畳の畳ギャラリーとなっています。日本の美術品・工芸品は本来、畳に座って見るものであることから、敢えて作品の位置が低い展示ケースを採用したそうです。競技かるたや講演会などのイベントも畳ギャラリーで開催されます。

 

 

嵯峨嵐山文華館の場所

https://g.page/SagaArashiyamaBunkakanSAMAC?share

 

 

嵯峨嵐山文華館の行き方

・JRで

  山陰本線嵯峨野線)「嵯峨嵐山駅」下車 徒歩14分

 

・阪急で

  嵐山線「嵐山駅」下車 徒歩13分

 

嵐電京福電気鉄道)で

  嵐山本線「嵐山駅」下車 徒歩5分

 

 

 

今回のスタートは、同じく渡月橋近くの福田美術館からです。

京福電気鉄道「嵐山駅」から福田美術館までの行き方は以下のブログでご案内しています。↓

yomurashamroch.hatenablog.com

 

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福田美術館の前の道を南(保津川方面)へ向かいます。

 

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前方右手にコーヒー店アラビカ京都が見えます。アラビカ京都の角を西(右)へ曲がります。

 

 

 

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保津川沿いの道に出ました。西へ進みます。

 

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200mほど進み、道なりに北(右)へ曲がります。

 

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嵯峨嵐山文華館に着きました。ミュージアムの前には四季折々の自然の美しさを楽しめる石庭に面したカフェ「嵐山OMOKAGEテラス」があります。こちらはカフェのみの利用も可能です。

 

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では、さっそく中へ入って行きましょう。

 

エントランスで入館料を払い、住所、氏名、電話番号を記入します。

嵯峨嵐山文華館では、チケットにQRコードが印刷されています。

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これを各展示室の入口にある読取機にかざして入室します。

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ゲートが開いて中に入ります。

 

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写真撮影は「撮影不可」の表示がある展示物以外はOKです。

 

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まず、常設展示を見ていきます。

百人一首を選定した藤原定家の紹介や、さまざまなかるたのコレクションが並びます。

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初期の源氏物語かるたは、貝型の紙に源氏物語に出てくる和歌の上の句と下の句が書かれた物だったそうです。その後、百人一首のかるたが作られたのと同時期に、写真のような長方形のカード形式に変化していきました。和歌と源氏物語の各場面が細やかな筆づかいで描かれています。

 

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ズラリと並んだ100人の歌人を紹介する可愛らしい「歌仙人形」。それぞれの和歌とともに展示されていて壮観です。

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常設展示では、このほかにも百人一首やかるたの歴史や魅力を様々な形で紹介しています。18世紀になると出版技術が発達し、絵入りの「百人一首本」が続々出版され、上流階級だけでなく、広く一般に知れ渡るようになりました。百人一首は、浮世絵や滑稽本などでパロディ化され、庶民の娯楽の一つとなり、生活の中に浸透していきます。特に、女性にとっては古典の教養として重視され、教科書としても使われたそうです。

 

私は百人一首に詳しいわけでも無く、中学生の頃、冬休みの宿題で覚えたぐらいです。今、改めて百人一首の和歌を読んでみると、こんなにも細やかに美しく四季の移ろいや人の心を歌に詠んだ古の歌人たちの感性と知性には本当に感服してしまいます。そして、千年の時を超えて、現代の私たちもその精神を感じられる…人の心や感性は千年経ってもそんなに変わらないということも興味深く感じました。源氏物語枕草子を今読んでも面白く感動するのと同じことなんでしょうね。

 

百人一首の魅力を存分に感じたところで、次は本題の「京(みやこ)のファンタジスタ」~若冲と同時代の画家たち の展示を見ていきましょう。

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第一会場の福田美術館では「どうしてこんなに天才たちが」と題して、伊藤若冲と同時代に京で活躍した個性的な絵師たちの作品を中心に展示されています。

そして、第二会場の嵯峨嵐山文華館では「天才くらべてみました」と題して、若冲円山応挙、長沢蘆雪、呉春など、18世紀から19世紀にかけて活躍した絵師らの絵画を、画題ごとに並べて展示しています。各々の描き方の共通する点や異なる点を比べて鑑賞することが出来ます。

 

一階ギャラリーでは「第一章 いきもので比べてみました」と題し、同時代の絵師らの絵画をトラやニワトリ、サルやカメなど同じ動物の画題ごとに並べて展示するという面白い企画です。

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円山応挙作 虎図

円山応挙は写生を重視した画風で人気を博しましたが、見たことが無いトラであっても、目の前に存在しているかのようにリアルに描くことに挑戦したそうです。黄色と黒色の毛並みが細かい線で描かれ、毛の触感までもが伝わってくるようです。日本には生息していないトラを、長崎で輸入された毛皮や絵画を参考にしたり、ネコをモデルにしたりして描いたそうです。その結果、頭部と胴体のつながりが不自然だったり、表情がネコのように可愛らしかったりとユーモラスな作品になっていますね。

 

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長澤蘆雪作 猛虎図

長澤蘆雪円山応挙に入門して、応挙の描き方をマスターした後、より自由で大胆な画風へ変化したいきました。崖の下で真っ赤な舌で毛づくろいをするトラを描いたこの絵はネコを参考にしながら、眉毛のように縦に並ぶ縞模様や緑色の目など、想像で描いた部分も多く見られるそうです。「猛虎」と言いながら何とも愛嬌のあるトラですね。

 

 

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曽我蕭白作 虎図

曽我蕭白は京都の商家に生まれた画家で、室町時代の画家 曽我蛇足の系譜に連なる蛇足軒十世を名乗りました。荒々しい筆致や大胆な構図は観る者を驚かせ、若冲と並んで「奇想の絵師」とも評されています。横向きに座って、ニンマリ笑う姿が印象的なトラです。

 

第一章ではトラの他にもニワトリやサル、カメなどが様々な画家による作品を並べて展示され、それぞれの特徴を見比べながら鑑賞でき、大変興味深かったです。

 

では二階へ移動しましょう。

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階段もスタイリッシュですね。

 

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二階の入口にもQRコードの読み取り機が設置されています。

このゲートを抜け、この先は靴を脱いで鑑賞します。

 

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靴を脱いで畳ギャラリーに入る手前の廊下の突き当りに、百人一首の顔出しパネルが。

 

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畳ギャラリーの横の廊下は縁側のようになっていて、椅子に座って保津川の流れや渡月橋、美術館一階の石庭をゆっくり眺めることも出来ます。

 

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畳ギャラリーは120畳の大広間の周辺に、畳に座って絵画を鑑賞できるよう、敢えて作品の位置が低い展示ケースが設置されています。

 

第二章は「伊藤若冲若冲派」と題し、若冲晩年の屏風とともに、伊藤家の菩提寺である宝蔵寺が所蔵する若冲作品や弟の白歳、弟子の処冲など若冲派の作品が展示されています。若冲の画風を手本としながらも、個性的な表現を模索した画家たちの作品が楽しめます。

伊藤若冲享保元年(1716)京都の錦小路の青物問屋「桝屋」の長男として生まれました。23歳の時に家業を継ぎますが、30代には「蕪に双鶏図」などを描いていたことが分かっています。40歳の時に弟に家督を譲り隠居、画業に専念しました。彼の代表作「動植綵絵」30幅は43歳の頃からおよそ10年かけて描いた大作です。

 

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入ってすぐのところに展示されているのは、伊藤若冲の群鶏図押絵貼屏風です。

若冲は動物の動きを微細に写生するために、自宅の庭に多数の鶏を飼って、図鑑のようにリアルな鶏の絵を沢山描き「鶏の画家」とも言われています。

墨の濃淡だけで描いた鶏たちですが、勢いよく伸びた尾羽や鱗状の足の模様、鋭い爪などが生き生きとリアルに描かれています。これが若冲晩年の作というから驚きです。

 

企画展「京(みやこ)のファンタジスタ」福田美術館・嵯峨嵐山文華館で - 若冲や同時代の京都の画家を紹介|写真2

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f:id:yomurashamroch:20210921171454p:plain伊藤若冲作 竹に雄鶏図(一部)

正面を向いた雄鶏が片脚で竹の下に立っています。その羽は頭部を中心に周りに広がり、上へ積み重ねるように描かれています。胴体の羽に用いられているのは「筋目書き」と呼ばれる特徴的な技法。墨と墨とが混ざることなく、境目の白い筋が出来るという紙の性質を利用しています。餌でも探しているのでしょうか?鋭い目つきは今にも画面から飛び出して来そうです。

 

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伊藤白歳作 南瓜雄鶏図(一部)

40歳で隠居した若冲に代わって青物問屋「桝屋」の6代目になった弟・宗巌は家業にちなんで「白歳(はくさい)」という号を使い、絵を描きました。南瓜に足を掛ける雄鶏を描いたこの作品は、羽と羽の境目に細い隙間を空けて描いています。兄・若冲の雄鶏に比べると直線的な形で立体感もありませんが、家業の傍ら兄の作品をまねようとしていたことが伺われ、兄弟の仲の良さが伝わってきます。

 

同じ畳ギャラリーの後半は、第三章「人物・山水で比べてみました」と題し、美人画や中国で有名な詩を元にした山水画を様々な画家の作品を並べることで比較展示しています。

 

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円山応挙 皆川淇園 作 美人図(一部)

円山応挙は写生を重視した画風で人気を博し、老若男女や様々な職業の人を実際に写生して研究を行い、最も理想的な人物表現を追求したことで知られています。皆川淇園は江戸時代中期の儒学者で、山水画では円山応挙の弟子として相当の腕前だったそうで、師の応挙に劣らずとの評価も受けているそうです。白い肌に羽織の緑色が映えて、かんざしで髪を整えてくつろぐ遊女でしょうか。品の良い色気を感じますね。

 

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祇園井特作 紫女図(一部)

紫女とは源氏物語の作者紫式部のことです。知的でちょっと神経質そうな表情が紫式部の心情まで読み取れそうです。

井特は、円山応挙らと同時代の京都の絵師で、祇園にあった茶店「井筒屋」の主人、特右衛門の雅号と伝えられているそうです。井特は、顔だけを極端に大きく描く独自の手法で、歴史上の女性をリアルに表現しようと試みているそうです。

京都のお土産「八つ橋」で有名な、井筒八つ橋本舗は、この井筒屋に料理を提供する仕出し店として発足したのが始まりだそうです。

 

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呉春作 前赤壁図(一部)

呉春は京都出身の画家で、与謝蕪村に絵と俳諧を学び、蕪村が亡くなった後は円山応挙の画風に影響を受けたそうです。

この作品は、中国、宋代の詩人 蘇軾(そしよく)の有名な詩「前赤壁賦」を題材にした山水画です。「前赤壁賦」は画題としてよく使われるそうですが、その際、必ず古戦場とされた赤壁、時間を表す満月、船に乗る蘇軾と友人が描かれます。この作品では赤壁を左右から迫る険しい峡谷として見事に表現しています。

 

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横山清暉作 赤壁図(一部)

横山清暉は京都出身の日本画家で、呉春とその弟・松村景文に学び、幕末まで京都を代表する画家として活躍しました。本作は左右から突き出た崖の間に、蘇軾らが乗った船を配し、呉春による赤壁図とは違う構図で描こうとしたことがわかります。

 

 

絵を見終わったので、また一階へ下ります。

ショップ

一階にはミュージアムショップがあります。百人一首や企画展に関するオリジナルグッズ、関連書籍などを取りそろえています。嵐山のお土産としても好評だそうです。

 

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ミュージアムショップの奥にはカフェ「嵐山OMOKAGEテラス」が。開放感のある空間で、大きな窓から見える嵐山や保津川とともに、四季折々の自然の移ろいを感じられる石庭の眺めを楽しむことができます。

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百人一首文芸苑

これはミュージアム内ではなく、近隣5ヵ所の公園、公有地に、百人一種に撰ばれた和歌の歌碑が100基あるそうです。2007年に京都商工会議所120周年記念事業の一環として建立されました。

写真は、以前近くの亀山公園で見かけた歌碑です。こちらも百人一首文芸苑の一つです。

亀山公園については、以下のブログでご紹介しています。↓

 

yomurashamroch.hatenablog.com

 

嵯峨嵐山文華館は、「百人一首殿堂 時雨殿」が前身のため、福田美術館とはまた違って、より和を感じられる落ち着いた佇まいの美術館でした。靴を脱ぎ畳に座って絵を鑑賞できるという体験も貴重ですし、外の嵐山の風景と、展示されている日本画とが、まるで一続きの絵のような一体感も感じられました。一階のカフェの前の石庭には四季折々の木が植えられ、どの季節に伺っても、嵐山の風景と調和した自然の美を感じられそうですので、また他の季節にも行ってみたいと思いました。

嵐山観光の目玉として、福田美術館とともに訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

嵐山周辺のスポットを他にもいくつかご紹介しています。

 

世界遺産 天龍寺

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

保津川を挟んで嵯峨嵐山文華館の向かい側の「大悲閣 千光寺」↓

 

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

京福電気鉄道で嵐山から3駅のところにある車折神社

 

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

「京(みやこ)のファンタジスタ」~若冲と同時代の画家たち ①福田美術館

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美しい自然が多くの貴族や文化人に愛され、すぐれた芸術を生み出す源泉となった嵯峨嵐山。この地で、18世紀の京の都で活躍した画家たちと彼らに大きな影響を与えた画家たちの作品を一堂に会した展覧会が二つの美術館で開催されています。近年特に注目を集めている伊藤若冲を中心とした個性豊かで豪華なラインナップの展覧会は、見ごたえ充分。渡月橋にほど近く、周囲の美しい自然と絶妙に調和した二つの美術館とともにご紹介します。今回は福田美術館です。

 

 

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京(みやこ)のファンタジスタ若冲と同時代の画家たち

 

伊藤若冲が活躍した18世紀の京都は、絵画と俳諧の二つの分野で才能を発揮した与謝蕪村、日本において文人画を大成した池大雅、写生を基本とした革新的な画風を確立した円山応挙、人々を驚嘆させた奇抜な画風の曽我蕭白など、個性豊かな絵師たちが群雄割拠していました。彼らは互いに交流し、影響をうけながらそれぞれの画風を確立していきました。この展覧会では、若冲と同時代の画家たちの作品を展示し彼らの絵の魅力に迫ります。

会期:2021年7月17日(土)~10月10日(日)

会場:第一会場:福田美術館 https://fukuda-art-museum.jp/   第二会場:嵯峨嵐山文華館 http://www.samac.jp/

開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30)

休館日:火曜日(祝日の場合は翌平日)

 

入館料など詳細は各美術館の公式サイトからご確認ください。

 

●福田美術館とは

福田美術館は、美しい自然とともに日本美術の名品を楽しんでいただくことで、京都・嵯峨嵐山が日本文化の新たな発信拠点になることを目指して、2019年10月に開館されました。

同館のオーナーは、消費者金融大手 アイフルの創業者である堀田吉孝、館長は娘の川畑光佐が務め、「100年続く美術館」をコンセプトに、「地元京都への恩返しがしたい」という思いから設立されました。所蔵点数は約1500点、琳派から円山四条派、京都画壇の作品を中心にしています。

 

福田美術館の建築は、東京工業大学教授 安田幸一が担当。外観は伝統的な京町屋のエッセンスを踏まえたデザインとなっており、内部は蔵をイメージした展示室や、縁側のような廊下など、日本的な意匠を盛り込んでいます。また、展示室のガラスケースには、92%の高透過率を誇るドイツ製のガラスを採用し、継ぎ目の少ない巨大ガラスと、日本画を鑑賞するのに最適なライティングによって、より良い鑑賞体験を提供しています。

 

●福田美術館の場所

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●福田美術館の行き方

JR山陰本線(嵯峨野線)「嵯峨嵐山駅」下車 徒歩12分

阪急嵐山線「嵐山駅」下車 徒歩11分

嵐電京福電気鉄道)「嵐山駅」下車 徒歩4分

 

今回のスタートは、京福電気鉄道「嵐山駅」です。

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駅前を南北に走る「長辻通り」を南へ進みます。

 

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緊急事態宣言中の嵐山は、土産物店や飲食店も休業している所があります。

この道を南へ進みます。

 

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前方に渡月橋が見えてきました。橋の手前を右(西)へ進みます。

 

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橋の手前を右に曲がったところです。このまま川沿いを西へ進みます。

 

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川沿いの道を100mほど西へ進むと、道の右手(北)にコーヒー店 アラビカ京都・嵐山が見えます。この向かいに福田美術館の看板が出ています。

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看板に従って、アラビカ京都・嵐山の前の道を右(北)へ曲がります。

 

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アラビカ京都・嵐山の北隣が福田美術館です。

モダンな日本家屋といったおしゃれないで立ちです。

 

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エントランスで検温し、住所・氏名・電話番号を記入してから入館します。

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外の光をふんだんに取り入れたシックな階段と廊下です。

二階に上がっていきます。

 

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階段を上がって二階に着くと、左手に「網代模様」をもとにデザインされた美しい外壁ガラスが。

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網代模様のガラス窓から見えるのは保津川の流れです。こちらからの保津川の眺めはそれだけでも非常に美しいのですが、網代模様のガラス越しに見ると更に風情がありました。

 

さて、美しい保津川の眺めを後に、ガラス窓と反対側にある第一展示室へ向かいます。

第一会場である福田美術館では「どうしてこんなに天才たちが」と題して、若冲と同時代に京で活躍した個性的な絵師たちの作品を中心に展示されています。

 

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ここから先は蔵をイメージした薄暗い展示室になり、禁止されている作品以外は撮影可能ですが、フラッシュ使用禁止のため、あまりきれいに撮影できませんでした。

そのため福田美術館の公式サイトなどから画像をお借りしています。

 

第一章は「若冲と蕪村」と題し、同じ年に生まれ、20年間同じ京に住み、中国絵画を学ぶなどの共通点がありながら、まったく異なる画風を追求した伊藤若冲与謝蕪村の作品が展示されています。

 

伊藤若冲は、1716年に京の錦小路市場の青物屋「桝屋」の長男として生まれ、40歳までは商いに精進しますが、40歳で隠居してからは画業に専念。代表作「動植綵絵(どうしょくさいえ)」のような極彩色の絵や水墨画、版画などを85歳で亡くなるまで精力的に制作しました。

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福田美術館公式サイトより 以下伊藤若冲

左 :「鯉魚図」(一部)

中央:「蕪に双鶏図」(一部)

右 :「群鶏図押絵」(一部)

一番印象に残った絵は、群鶏図押絵です。若冲というと「動植綵絵(どうしょくさいえ)」に代表される色鮮やかな作品が有名ですが、動物の動きを微細に写生するために、自宅の庭に多くの鶏を飼って、図鑑のようにリアルな鶏の絵を沢山描き「鶏の画家」とも言われています。この「群鶏図押絵」はまさに「鶏の画家」の実力を存分に発揮した作品の一つと言えるでしょう。墨のにじみやかすれを利用してふさふさした胴体の羽や力強く勢いのある尾羽、うろこ状の足の模様や鋭い爪などがこれでもかとリアルに描かれており、これが若冲82歳の時の作品というから、その旺盛な創作意欲に感服します。

 

一方与謝蕪村は1716年、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区)に生まれました。20歳頃に江戸で俳諧を学びますが、師匠が亡くなったのを機におよそ10年間、浄土宗の僧侶として北関東から東北地方を遊歴します。42歳頃から京に定住し、僧侶を辞めて結婚。文人画の技法を用いた山水画や、絵に発句を書き添えた俳画を精力的に描き、68歳で生涯を閉じました。

「京のファンタジスタ若冲と同時代の画家たち」福田美術館公式サイトより

与謝蕪村「茶筵酒宴図屏風」(一部)

蕪村の絵画というと、水墨画に俳句を添えた渋い俳画のイメージですが、こちらの屏風は机の朱色が色鮮やかな作品です。絖(ぬめ)という非常に高価で特に光沢のある絹に描かれ、机などには高価な朱色の絵具がふんだんに使われているそうです。蕪村の支援者たちが資金を出し合って屏風講という会を作って描かせたもので、蕪村51歳の時の作品です。

 

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2階の第一展示室を出て、更に階段を上がり第二展示室へ向かいます。

 

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第二展示室での第二章では「鎬(しのぎ)を削る画家たち」と題し、若冲と同じ時期に京都の四条通界隈を中心に暮らしていた絵師たちの作品と、彼らが影響を受けた禅僧や画家の作品、大阪で活躍した同時代の画家たちの作品が展示されています。

 

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池大雅作「菊花図」

池大雅は、京都の銀座役人の子として生まれました。幼少期から書画を得意とした大雅は、高位の武士や学者たちから愛され、文人画を志し、中国の絵画教本などを参考に、文人画のあるべき様式を手探りで追及し、文人画の大成者と言われています。

大輪の菊は墨のかすれやにじみにこだわらず、自由自在に筆を動かして描かれています。よく見ると、筆が紙に触れた時におのずと生じる跡が残っていない所が見られ、部分的に指や爪に墨をつけて描いたと考えられるそうです。画面上にしたためられているのは、若冲とも親しく交流した相国寺の梅荘顕常による賛です。

 

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円山応挙作「黄蜀葵鵞鳥小禽図」
円山応挙京都府亀岡市の農家の次男で、京都に出てからは狩野探幽の流れを汲む石田幽汀に入門し絵画を学びました。その一方で生活のため眼鏡絵を描いて西洋画の遠近法などを取り入れて独自の写生画を創り出しました。

この「黄蜀葵鵞鳥小禽図」は鵞鳥(ガチョウ)の後ろに黄蜀葵(おうしょっき:トロロアオイ)が大きい黄色い花を咲かせ、周りに小禽(小鳥)たちが遊んでいます。

ガチョウのふわふわとした羽の感じやおでこの出っ張り具合、くちばしの形や視線もリアルに描かれていて、ガチョウの体温まで感じることが出来そうな作品です。

 

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長沢芦雪作 「山水鳥獣人物押絵貼屏風」(一部)

長沢芦雪は、京都府丹波篠山の出身で円山応挙の高弟の一人と言われています。その絵は自由奔放、奇抜なもので、若冲や次に紹介する曽我蕭白とともに「奇想の絵師」と言われ、黒白、大小の極端な対比や、写実を無視した構図などは師である円山応挙の作風から逸脱しているそうです。

師の円山応挙狩野派のように伝統のある流派では無かったものの、多くの弟子を育て、その一門は「円山派」と呼ばれています。応挙の活躍した時代は、文化にかかわる層が町人へと拡大し、暮らしの中で掛け軸、襖絵などの需要が増えました。そんな中、応挙のように分かりやすくかつ新しい画法に注目が集まり、注文も増えました。その需要に応えるために、弟子をたくさん受け入れ育てなければならなかったそうです。たくさんの弟子の中には、長沢芦雪のような自由奔放な絵師も含まれ、応挙は弟子たちの個性も大切に育てたのかもしれません。なお、芦雪の自由奔放な性格は時に傲慢な面もあったようで、後年破門されたとか、その死も毒殺とも自殺とも言われ、少なくとも普通の死では無かったようです。

 

 

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曽我蕭白作 「群仙図」

曽我蕭白は京都の商家の出身と言われていますが、若くして天涯孤独の御となり、絵筆一本で食べていくため伊勢や播州を放浪。高い水墨画の技術を誇る一方、絵師としての特色を打ち出そうと、あえて破天荒を演じたとも言われています。それは観る者を驚かせる強烈な画風で「奇想の絵師」と評されています。

「群仙図」は右下には一度寝ると百日は起きなかったと言われる「陳摶(ちんたん)」という仙人、右上の桃の木の下に座るのは西王母、左の馬小屋の前に立つ男は馬の医者

馬師皇と言われているそうです。でもこれらの仙人よりも断然目立っているのが左端の白い馬ですよね。蕭白の絵にはよくこのようにアイラインを描いたようにくっきりと隈取された目の馬の絵があるそうで、一度見たら忘れられない印象的な姿です。足をクロスさせた立ちポーズと言い、アイラインの強い不思議な馬の表情と言い、何とも言えないユーモアが感じられ、こんな所が「奇想の絵師」と称される所以なのでしょう。

 

 

個性派ぞろいの絵師たちの作品を満喫したところで、第三展示室へ向かいます。

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第一、第二展示室では普通に作品を並べて展示することによりそれぞれの個性の違いを見比べるというものでしたが、第三展示室では少し別の視点から紹介されています。南宗画士の岡原大華さんの筆による、若冲与謝蕪村らそれぞれの画家のタッチをまねて描いた絵と、その特徴や描き方の解説が添えられていて、とても分かりやすかったです。

 

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今回紹介された画家たちは、京都四条通り界隈のかなりご近所に暮らしていたようで、資料を元にそれぞれの住居の場所が地図上に記されていて興味深いです。

京都に住む人物を学者、書家、画家、篆刻者などの職業ごとに名前、雅号、住所、署名を記した名鑑「平安人物志」で、画家の部では一番に円山応挙、二番目が伊藤若冲、四番目が与謝蕪村が記されています。「平安人物志」の冒頭には「著者が知った順番に掲載し、才能の優劣には関係ない」と記されているそうですが、実際には人気のある順番に掲載されたと考えられているそうで、これも面白いなあ、と思いました。

 

 

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さらに、それぞれの画家たちの生い立ちや交流の有無などを、資料を元にまとめた表も展示されています。今回の展示の第一章で紹介された与謝蕪村若冲については、関係を示す記録が全く確認されていないので、この表からは省いているそうです。

とは言え、先の地図や「平安人物志」で見る通り、家も近所、画家としての評判も優劣つけがたく、生まれ年も同じとあれば、お互い認識していないはずは無いと思いますが、意識しすぎてお互い避けてたのかなあ?などと勝手な想像をするのもまた一興ですね。

この時代の京都にこんなにも奇想の画家たちが活躍した背景として、明治学院大学教授の山下裕二さんは複数の要因を指摘しています。

「一つは市場の変化。江戸時代も中期になると庶民が購買力をつけ、絵を求めた。その需要に応えたのが、大名のお抱えではない、曽我蕭白のような職業絵師。京都は富裕な町人たちからの注文がかなりあり、職業絵師には魅力的なマーケットだった。」

地政学的要因も見逃せない。京都には天皇はいても、殿様がいない。幕府の権威が及ばない、いわば空白地帯。だから、絵師たちは自由に奇想を鍛えたのだ。

それを受け止める土壌があったことも要因の一つだろう。京都はもともと文化の中心。新しいものを求める気質や画を見る目もある」注)

 

思えば近代化においても京都は日本で最初に…というのがたくさんあります。

日本初の近代小学校、水力発電所、路面電車、中央卸売市場、国際会議場…京都は歴史のある街である一方、先進性に富む街でもあります。ただ伝統を守るだけでなく、新しいものに挑み、取り入れる柔軟性と懐の広さを持っているのでしょう。

私自身、絵画を見るのは好きだったのですが、日本画は古臭くてどうも…と少し苦手意識がありました。しかし若冲の絵と出会ってからは、同時代の画家たちの自由奔放でアバンギャルドな魅力に触れ、すっかり奇想の画家たちの大ファンになってしまいました。そして、京都でこれらの作品が見られたことを本当にうれしく思いました。

 

注)『若冲蕭白、芦雪…&其一にドキッ! 奇想の画家たち 又兵衛、山雪、国芳北斎も!』日経おとなのOFF より抜粋 2019年4月1日発行

 

 

素晴らしい絵画を満喫した後は、二階の突き当りにあるミュージアムカフェ「パンとエスプレッソと福田美術館」へ

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床とオリジナルデザインの家具には無垢材を贅沢に使用し、美術を鑑賞した余韻をゆったりと味わいながら、ドリンクや軽食、スイーツなどを楽しめます。

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福田美術館公式サイトより

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福田美術館公式サイトより

 

 

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深い庇をつくることでガラスの反射を抑え、しっとりと影に包まれた落ち着いた空間になっています。

 

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カフェからの眺めはどこを切り取ってもまさに絶景!このカフェでお茶するだけでも楽しめるなあ、と思ったら、こちらのカフェは来館者のみ利用可能なのです。そのおかげで混雑することも無く、窓からの絶景をゆったりと楽しめるので、福田美術館を訪れた際には、是非このカフェにも足をお運びください。

 

今回は、嵯峨嵐山の福田美術館で若冲と同時代の画家たちの作品を満喫しました。

渡月橋からほど近い同館は、嵐山散策の目玉にもなりうる見ごたえ充分な美術館です。次回ご紹介する嵯峨嵐山文華館と合わせて、日本画の名作に浸るひと時を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

嵐山周辺は言わずと知れた観光スポットです。

周辺もいくつかご紹介しています。

 

世界遺産 天龍寺

yomurashamroch.hatenablog.com

 

保津川を挟んで福田美術館の向かい側の「大悲閣 千光寺」↓

yomurashamroch.hatenablog.com

 

福田美術館から保津川沿いに西へ300mほどの所にある亀山公園↓
yomurashamroch.hatenablog.com

 

京福電気鉄道で嵐山駅から3駅のところにある車折神社

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

 

相国寺③山内塔頭や神社など 

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相国寺京都御所の北側、同志社大学の東隣という京都のど真ん中にあります。

京都五山の第二位という大変格式高い寺格を誇り、四万坪という広大な敷地を持つ歴史ある寺院なのです。しかし「しょうこくじ」と正しく読めて、どこにあるのか、どんな由緒のある寺院なのかをきちんと説明できる人は、京都でもそんなに多くは無いのでしょうか。かく言う私も、伊藤若冲の絵に魅せられ、相国寺との深い縁を知る中で、初めて相国寺に関心を持った一人です。今回、相国寺の境内にある「承天閣美術館」の「若冲と近世絵画」という展覧会を見るために訪れてみて驚いたのは、相国寺の壮大で整然とした品格ある美しさと、それにも関わらず、ほとんど観光地化されていない静寂の美でした。こんなに立派なお寺が、洛中のど真ん中のとても便利な立地にあるのになぜあまり知られていないのか?不思議で仕方ありませんでした。

そこで、まだそんなに多くの人に知られていない相国寺を、もっともっと知っていただきたいと思い、ここにご紹介します。

今回は広大な相国寺の敷地内にある、山内塔頭や神社などをご紹介します。

 

相国寺の場所

goo.gl

 

 

相国寺の行き方

電車で

 地下鉄烏丸線今出川駅」下車 徒歩6分

 

バスで

 京都市バス 51、59、201、203、急102系統

      「烏丸今出川」下車 徒歩7分

 京都市バス 59、201、203系統   

      「同支社前」下車 徒歩6分

 

最寄りの駅から相国寺への道順は以下のブログをご参照ください。

地下鉄今出川駅の南改札から出て総門から入るルートは以下↓

相国寺の歴史や立派な寺院なのにあまり観光地化されていない理由も

yomurashamroch.hatenablog.com

 

地下鉄今出川駅の北改札から出て、西側の門から入る最短ルートは以下↓

承天閣美術館も詳しくご紹介しています

yomurashamroch.hatenablog.com

 

今回は、上記②で紹介している西側の門から入ります。

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門を入るとすぐに、背の高い赤松林がお出迎えです。

禅宗寺院らしい凛とした空気が感じられます。

 

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入ってすぐ参道の北側(左)に瑞春院があります。

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瑞春院は、水上勉『雁の寺』のモデルとして有名で、実際作者が少年時代を過ごしたお寺です。直木賞作家 水上勉氏は9歳の時、瑞春院で得度し13歳まで禅の修行しましたが、ある日突然寺を出奔。諸所を遍歴し文筆活動に精進し、昭和36年(1961)『雁の寺』を出版。雁の寺の小説は瑞春院時代の襖絵を回顧し、モデルとしたことから瑞春院は別名を『雁の寺』とも言います。今も雁の襖絵8枚が本堂上官の間(雁の間)に当時のまま残っているそうです。

その他、室町期の禅院風の枯山水庭園や水琴窟が有名ですが、現在は残念ながら非公開です。

 

 

その他、山内塔頭を見ていきましょう。

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相国寺の境内地図です。

先ほどの瑞春院は地図左端の西門から少し中ほどに入った位置にあります。

 

 

 

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光源院は瑞春院の前の道を東へ進み、仏殿跡の松林を抜けた先にあります。

第十三代将軍足利義輝菩提寺で、義輝の院号により光源院と称しています。

本堂の仏間十二面の襖には日展特選作家、水田慶泉が半年がかりで描き上げた禅宗寺院には珍しい干支を配した襖絵が描かれているそうです。

 

 

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光源院から赤松林を挟んで西側に養源院があります。

養源院は曇仲道芳(どんちゅうどうぼう)を開祖としています。詩文に優れ、足利義満、義持父子の寵遇を受けました。薬師如来を本尊とし、毘沙門天を祀り、近隣の信仰を集めています。

戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いのときには、養源院内に薩摩藩の負傷者が運び込まれる薩摩病院が開設され、建物内の柱に薩摩藩士によってつけられた刀傷もあるそうです。

中庭には枯山水があったり、書院前庭は立派な三段落ちの滝のある池泉回遊式庭園があるそうです。

 

相国寺にはこのような山内塔頭が13ありますが、現在は非公開です。コロナ以前は予約すれば見学できたり「京の冬の旅」などで特別公開されたこともあるようです。

見どころも多いようなので、公開されたら色々見てまわりたいものです。

 

 

山内塔頭以外にもいろいろと見どころがあります。

 

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光源院の北側に弁天社があり、弁財天を祀っています。この弁財天は古来から京都御所内の久爾宮邸に奉伺されていましたが、明治になり同宮家が東京へ移転された時に相国寺が寄進を受けました。平成19年(2007)に京都府指定有形文化財になりました。

 

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弁天社の東隣には、堂々とした鐘楼があります。この鐘楼は「洪音楼」と呼ばれています。下の重が城の天守の石垣のように広がった「袴腰付鐘楼」になっており、天保14年(1843)に再建されたようです。大型のものでは現在有数の物で、楼上に梵鐘を吊るしている日本では珍しいものだそうです。

普段は非公開ですが、コロナ前は除夜の鐘としてこちらの鐘を撞くことが出来たそうです。人数制限無し、回数制限無しで、相国寺を参拝すれば誰でも撞けたそうです。

 

この洪音楼の東側の通路を北に進んだところに、「宗旦稲荷社」が祀られています。

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突き当りが宗旦稲荷社です。

 

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もう少し近づいてみましょう。

 

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宗旦稲荷の由来書きです。
江戸時代の初めに、相国寺の境内に一匹の白狐が住んでいました。その狐はしばしば茶人 千宗旦千宗室の孫)に姿を変え、時には雲水にまじり座禅を組み、また時には寺の和尚と碁を打つなどして人々の前に姿を現していました。

宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅で茶を飲み菓子を食い荒らすことがありましたが、ある時、この宗旦狐は相国寺塔頭慈照院の茶室開きで、見事な点前を披露しました。遅れてきた本当の宗旦は、そのことに感じ入ったそうです。

その伝承のある茶室は現在でも慈照院にあり、茶室の窓には宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室の窓より大きくなってしまったそうです。

宗旦狐は化けていたずらをするだけでなく、人々に善を施し喜ばせていたということから、雲水たちは宗旦狐の死を悼み祠をつくり供養したそうで、それがこの宗旦稲荷社として残っているそうです。

 相国寺という格式高い寺院の中に、お茶目な狐の伝承が残っていて、狐が化けていた千宗旦本人らが狐の死を悼み祀る、というのが、何ともほのぼのしていて面白いですね。

 

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養源院の北側にあるのが経蔵です。経蔵は、天明の大火によって焼失した宝塔の跡地に万延元年(1860)に建立されました。宝塔が再興された時に、経蔵置き場を兼用することになり、以来経蔵を兼ねた宝塔として機能してきましたが、仏舎利が他の堂宇に移された現在は経蔵としてのみ使用されています。高麗版一切経が納められています。平成19年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。

 

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経蔵から後水尾天皇の髪歯塚(写真が上手く撮れませんでした)を経て北側にあるのが鎮守です。創建当時は今出川通りの北にあって、現在の御所八幡町がその旧跡だそうです。足利義満が男山八幡から御神体を奉迎した時は、男山八幡から当寺まで沿道にことごとく白布を敷き詰めたというから驚きです。

 

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鎮守の北隣が天響楼(てんきょうろう)です。平成22年(2011)に建立された新しい鐘楼です。相国寺の名前の由来の一つにもなった、中国開封市にある大相国寺により二つ鋳造され、その一つが日中仏法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、「友好記念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されています。

 

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天響楼の北側にあるのが浴室です。相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたようです。現在のものは慶長初年(1596)に再建されたもので、平成14年(2002)に復元修復されました。

禅宗では日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、浴室は、修行の上でも「心」と「体」の垢を落とすという意味でも重要な役割を果たしています。現在のお風呂のように湯にざぶんとつかるのではなく、大きな釜から桶に汲んだ湯を柄杓で体にかける、掛け湯の方法だったそうです。外で薪をくべるのも修行のうちで、黙って行う三黙道の一つで会話は禁止。斜めに敷かれた床板の溝から不要な湯は流され、隣にある東司(トイレ)に流れるという合理的な造りになっているそうです。こちらも以前は相国寺の特別公開で公開されたこともあったようです。

 

このブログを書くにあたって色々な本を調べた中で、先の浴室の北側にある相国寺内の墓地に、藤原定家足利義政伊藤若冲の三人のお墓が並んでいるという記述を見つけました。お墓を見てもなあ~と思って素通りしてしまい、大変惜しいことをしました。この三人のお墓は、昔は別々の子院の墓地にあったものが、戦後に墓を整理してこの墓地にまとめた時に、有名人だったために一緒に並べられたそうです。時代もバラバラ、関係もバラバラの不思議なめぐりあわせに、ご本人たちも面食らっておられるかもしれませんね。

 

以上が、拝観料などを払わなくても見学できる範囲の山内塔頭や諸堂、神社などです。

禅宗寺院らしいきりりとした空気感の中、それぞれに清冽な美しさのある建物で、外側から覗くだけでもこちらまで背筋が伸びる気持ちになります。

境内はとても広いので、ぶらぶらと歩くだけでも結構な散歩になります。京都御所からも近いので、あわせて散策してみてはいかがでしょうか。

 

京都御所の東隣にある蘆山寺は桔梗で有名です↓

 

yomurashamroch.hatenablog.com

 

相国寺②承天閣美術館 ~伊藤若冲ら江戸の絵師を育てた相国寺~

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 相国寺京都御所の北側、同志社大学の東隣という正に京都のど真ん中にあります。京都五山の第二位という大変高い寺格を誇り、四万坪という広大な敷地を持つ歴史ある寺院なのです。しかし「しょうこくじ」と正しく読めて、どこにあるのか、どんな由緒のある寺院なのかをきちんと説明できる人は、京都でもそんなに多くは無いのではないでしょうか。かく言う私も、伊藤若冲の絵に魅せられ、相国寺との深い縁を知る中で、初めて相国寺に関心を持った一人です。今回、相国寺の境内にある「承天閣美術館」の「若冲と近世絵画」という展覧会を見るために訪れてみて驚いたのは、相国寺の壮大で整然とした品格ある美しさと、それにも関わらず、ほとんど観光地化されていない静寂の美でした。こんなに立派なお寺が、洛中のど真ん中のとても便利な立地にあるのに、なぜあまり知られていないのか?不思議で仕方がありませんでした。
そこで、相国寺について私なりに詳しく調べてみて、もっともっと相国寺について知っていただきたいと思い、ここにご紹介します。

 

今回は相国寺の境内にある「承天閣(じょうてんかく)美術館」をご紹介します。

 

承天閣美術館の場所

goo.gl

 

承天閣美術館の行き方

電車で

 地下鉄烏丸線今出川駅」下車 徒歩6分

 

バスで

 京都市バス 51、59、201、203、急102系統

      「烏丸今出川」下車 徒歩7分

 京都市バス 59、201、203系統   

      「同支社前」下車 徒歩6分

 

本日のスタートは地下鉄烏丸線今出川駅」です。南改札口から出て、総門を通って入山するルートもありますが、今回は近道をして北改札口から出ます。

 

南改札から出るルートは以下をご参照ください。

 相国寺の歴史と、立派な寺院なのにあまり観光地化されていない理由も私なりに考えてみました↓

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

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今回は北改札口から出ます。

 

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北改札から出て右前方の出口1へ向かいます。

 

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 右手の階段を上がります。

 

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階段を上がり切ると、烏丸通です。向かい側右手には同志社大学の寒梅館(レンガ造りの建物)が見えます。横断歩道は渡らずに烏丸通を北(右)へ進みます。

 

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右手も同志社大学です。今出川キャンパスの前の烏丸通沿いを北へ進みます。

 

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一つ目の信号を東(右)へ曲がります。「相国寺」の看板が出ています。フルーツパーラーヤオイソの手前です。

 

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40mほど進むと相国寺の門です。こちらから入山します。

 

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入ってすぐ参道の北側(左)に瑞春院があります。水上勉の小説「雁の寺」のモデルにもなった塔頭です。詳しくは次回のブログでご紹介します。

 

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瑞春院の前の参道をそのまま東へ進みます。背の高い松林が続き、伝統と格式を感じます。

 

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とにかく広大な境内です。松林も堂々とまた整然と立ち並び、歩いているこちらの背筋まで伸びる思いです。一つ目の四辻の左前に「承天閣美術館」の看板が見えました。このまま前方(東)へ進みます。

 

 

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参道の左手(北)になだらかな石の階段があります。この階段の向こうにひときわ大きな建物が見えます。重要文化財 法堂(はっとう)です。度重なる火災により、本尊を安置していた仏殿は焼失し、現在はこの法堂に安置されていることから本堂とも呼ばれています。こちらも4度の火災に見舞われ、現在の建物は慶長10年(1605)に豊臣秀頼の寄進により再建されました。禅宗様の法堂建築としては最大にして最古を誇ります。詳しくは前回のブログをご参照ください。

 

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法堂の前の参道に戻ります。二つ目の四辻の左側にも「承天閣美術館」の看板が見えています。この四辻を北(左)へ曲がります。

 

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四辻を曲がったところです。この参道をまっすぐ北へ進みます。

 

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相国寺の春と秋の特別拝観の看板が見えます。この看板の横を通り抜け奥へ向かいます。

 

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正面が庫裏(くり)、左手が方丈です。

禅宗の寺院では方丈に続いて庫裏があり、社務所と台所を兼ねています。切妻妻入(きりづまつまいり)で、大きい破風や壁面が特に印象的です。

左手の方丈は住職の住居です。通常は非公開です。

詳しくは前回のブログを参照ください。

庫裏の手前を東(右)へ向かいます。

 

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承天閣美術館の入口です。中へ入って行きます。

 

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相国寺の境内と同様、何もかもが厳粛に整えられた静寂の美しさに、またもや背筋の伸びる思いです。青紅葉の緑色が目に涼やかです。

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承天閣美術館です。入口の左横に「普陀落山の庭」という枯山水の庭園があるそうですが、写真を撮り忘れましたので相国寺の公式サイトから拝借します。

館内案内イメージ写真

「普陀落山」とは、南の海にあるという山で、観音菩薩が住む浄土とされています。庭を囲むように配置されたソテツの木が南国風の雰囲気を感じさせるそうです。

 

 

承天閣美術館とは

相国寺は、臨済宗相国寺派大本山で、絶海中津や横川景三といった五山文学を代表する禅僧や、如拙・周文・雪舟らの日本水墨画の基礎を築いた画僧を多く輩出してきました。相国寺開山以来600円余の歴史により、中近世の墨蹟・絵画・茶道具を中心に多数の文化財を伝えて来ました。

昭和59年(1984)4月、相国寺600年記念事業の一環として本山相国寺鹿苑寺金閣)・慈照寺銀閣)・他塔頭寺院に伝わる美術品を収蔵・展示等を目的として承天閣美術館が建設され、国宝5点、重要文化財145点を含む多くのすぐれた文化財が収蔵され、様々な展覧会を行っています。

 

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 今回はこの「若冲と近世絵画」展を見て来ました。

 

相国寺若冲

若冲を導いた大典禅師(梅荘顕常)の存在

伊藤若冲相国寺は非常に深い関係にあります。この二つを結びつけたのは、相国寺の僧 113世 大典禅師(梅荘顕常 ばいそうけんじょう とも言います)でした。大典は若冲より三歳年下でしたが、五山文学のすぐれた学僧で、水墨画などの芸術にも長けていました。

その大典がいち早く才能を見出したのが、伊藤若冲でした。現在の錦市場にあった青物問屋の跡取りとして家業に励む傍ら、絵を描くことに夢中だった若冲。大典は信仰や生活上の師であり、なんと若冲相国寺に住まわせ好きなだけ絵を描かせるなど、様々な面で援助しながら、その成長を見守りました。「若冲」という画号も大典の命名であると言われています。

 若冲もまた、大典を師と仰ぎ、禅の教えを学ぶとともに、相国寺などが所蔵する中国絵画を模写する機会にも恵まれながら、その腕を磨きました。当時の日本の画壇の最高峰であった狩野派の画法の基礎となったのが中国画の花鳥図です。しかし中国の花鳥図も、写生すなわち動植物の生気や生態を写すことを目標にしており、そんな中国画を模写しても到底敵わない。直接本物の生物について学ばねば…と思い、若冲は自宅の庭にたくさんの鶏を飼って、その生態をつぶさに観察し写生しました。「鶏の画家 若冲」の元となったこのエピソードは大変有名です。その後若冲の描く動植物の絵画は、図鑑のように正確でありながら生き生きとした生命力も感じられるすばらしい特長を持つものになりました。

 若冲は特に絵の師匠などに師事せず、ほとんど独学で絵の才能を磨いたと言います。そんな孤高の絵師 若冲に、相国寺の山外塔頭鹿苑寺金閣)の大書院の障壁画全50面を依頼することを口添えしたのが大典でした。この障壁画は若冲が44歳の時の作品。まだキャリアも実績も無かった若冲に、後水尾天皇(1596~1611年)が行幸された時にお入りになったこともある貴人の間の障壁画を任せるとは、大典はよほど若冲の才能を認めていたということでしょう。

そして更に、二人の深い関係をあらわすエピソードとして、若冲は1765年に、あの有名な「動植綵絵(どうしょくさいえ)」や「釈迦三尊像」を相国寺に寄進しました。

動植綵絵」は若冲の40代にあたる約十年の歳月を費やした大作です。「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)」つまりこの世に存在する一切のものは、生命を持つものも持たない物も、すべて仏である、といういわばアニミズムの思想に基づいて描かれました。このような大作の企てを発案し、制作をつづける若冲を絶えず励まし、完成に導いたのが大典だったのです。

 

廃仏毀釈から相国寺を救った若冲

若冲は「釈迦三尊像」3幅と、仏を取り巻く様々な動植物が極彩色で描かれた動植綵絵」を、亡き両親と弟、そして自分自身の永代供養を願って相国寺に寄進しました。このことは、会心の作を大寺に預けておくことで、ながく世に残そうという絵師としての念願もこめられていたのかもしれません。

これを受け入れた相国寺では、毎年、年中行事の中でも最も重要な儀式の一つである「観音懺法(せんぽう)」でこの作品を飾り、若冲の遺志に報いてきました。

幸いにもこの動植綵絵」は、「釈迦三尊像」とともに、天明の大火での焼失を免れました。しかし、明治維新の折の廃仏毀釈は、伝統ある相国寺の維持を困難に陥れました。この窮状を救うため、明治22年(1889)、京都府知事のあっせんで「動植綵絵」30幅が皇室に献上され、それに対し金一万円が下賜されました。この金額で、相国寺は現在の四万坪という広大な境内を確保できました。若冲が百年の時を経て相国寺を救ったのです。ここにも若冲相国寺の深い縁を感じ、感慨深いものがあります。

 

若冲相国寺の関係をわかっていただいたところで、今回の「若冲と近世絵画」展をご紹介していきます。

 

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18世紀の京都では、多くの絵師たちがその腕を振るいました。今回は相国寺と深い関わりのある京の絵師たちの絵画を中心に展示されています。

 

第一章は「伊藤若冲相国寺」と題し、若冲の「釈迦三尊像」などの作品を通じ、相国寺の僧侶と絵師達の交流の軌跡を追います。

ここでは何といっても「釈迦三尊像」3幅が一度に見られるのがポイントです。中国の画家張思恭の釈迦三尊像を模写したものだそうです。真ん中に釈迦如来像、釈迦の右に文殊菩薩、左に普賢菩薩が並び、色鮮やかに彩色がほどこされ、特に釈迦如来の座る台座や三尊の衣の繊細華麗に装飾され描き込まれているさまは、めまいがしそうな美しさで、誰もが立ち止まって見入っていました。

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伊藤若冲筆 釈迦如来像(中央)文殊菩薩像(右)普賢菩薩像(左)

承天閣美術館公式サイトより

 

第二章は「天明の大火とその復興」と題し、京都市中の大部分を焼き尽くし、京都に大きな爪痕を残した天明の大火(1788年)関連の資料と、そのあとに再建された相国寺方丈を彩った、原在中による杉戸絵が紹介されるなど、相国寺の僧と京絵師たちの災害からの復興に向けた軌跡が見てとれます。

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原在中筆 相国寺方丈杉戸絵 三十六面のうち 承天閣美術館公式サイトより

 

ここまでが第一展示室です。

 

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第一展示室と第二展示室をつなぐ中央回廊からは美しい枯山水の庭が見渡せます。

 

  

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 第一展示室と回廊、回廊と第二展示室をつなぐ廊下の窓には、若冲の「群鶏図押絵貼屏風」の鶏の絵がすりガラス風にデザインされていて、目を楽しませてくれます。若冲の自宅の庭にも、このようにたくさんの鶏が放し飼いにされ、歩き回っていた様子を思い浮かべました。

 

 

続いて第二展示室です。

第三章では「金閣寺銀閣寺の障壁画」として、相国寺派寺院を彩ってきた、絵師達の個性あふれる名品のうち、鹿苑寺金閣)からは若冲鹿苑寺大書院障壁画五十面(重要文化財)、慈照寺銀閣)からは与謝蕪村の方丈上官之間の障壁画「山水人物図」や池大雅による慈照寺境内図などが見られます。

若冲の障壁画のうち「葡萄小禽図(ぶどうしょうきんず)」は、最も格式の高い「一之間」を飾っていました。葡萄は旺盛な生命力で四方へつるを広げ、さらに多くの実が集まって房となることから、多産、豊穣の象徴として古くから好まれてきたそうです。

 垂れ下がる葡萄の房や、ところどころ虫食いの穴の空いた葉の感じ、つるの先がクルクルとらせん状に垂れる様子など、リアルに表現されています。墨の濃淡だけで描かれた水墨画なのですが、繊細に描き込まれ、むしろ西洋美術のような印象です。このようなモダンな絵が、江戸時代に金額寺の大書院に飾られていたというから驚きです。

 

第四章では、18世紀の京都画壇の名宝と題し、これも若冲と同時代の絵師 円山応挙の名作「七難七福図鑑」、全長4mの「大瀑布図」(重要文化財)など大作が並びます。この頃、京では若冲をはじめ、先の与謝蕪村池大雅円山応挙など、錚々たるメンバーが大典禅師を慕って相国寺を訪れていたそうです。私でも名前を知っているぐらいの日本史の教科書でもおなじみの絵師たちが、相国寺で大典禅師を囲んでお互い切磋琢磨していたのかもしれないと想像すると、なんだかワクワクしてきます。相国寺という、京の文化の中心地に、大典禅師という良き理解者がいたことで、この時代の新しい絵画文化が花開いたのですね。

 

さらに、これらの展示の奥に、常設展示として鹿苑寺大書院障壁画が展示されています。第三章のように画面だけが壁に飾ってあるのではなく、展示室内に、鹿苑寺の大書院の一部、壁や畳、床の間などが復元されていて、その襖に描かれた絵が展示されているのです。

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葡萄小禽図(承天閣美術館公式サイトより)

 

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月夜芭蕉図(承天閣美術館公式サイトより)

 

私はこの月夜芭蕉図には本当に度肝を抜かれる思いでした。先ほどの葡萄小禽図のモダンな感じも驚きでしたが、この月夜と南国の芭蕉とは何ともエキゾチックというか…由緒正しき金閣寺の賓客の間の壁に、こんな斬新な絵が飾ってあったなんて!こんな題材を選んだ若冲の大胆さと、それを認めた大典禅師の英断に心から感服しました。題材は斬新で前衛的ですが、墨の濃淡だけで繊細に表現された月夜と芭蕉は、芭蕉を左端に大きく寄せて右側の余白を活かし、これは間違いなく和のテイストです。そしてそこはかとなく無常観も漂い、金閣寺の調度に自然に溶け込み、美しく飾っていたのだと思います。

これら二つの障壁画は常設展示なので、いつでも承天閣美術館で見ることが出来ます。若冲というと動植綵絵」に代表される色鮮やかな作品のイメージが強いかもしれませんが、このような水墨画にも、対象をこれでもかという程リアルに精密に描きつつ、その生命力、息遣いから「草木国土悉皆成仏」全ての物に宿る仏性までも表現する若冲の画力が遺憾なく発揮されており、これを見るだけでも値打ちがあると思います。

相国寺という禅宗寺院特有の凛とした空気の中、承天閣美術館若冲を始めとする様々な寺宝を堪能し、静かな時間を過ごしてみませんか。

 

承天閣美術館の「若冲と近世絵画展」は、現在開催中です。

会期Ⅰはすでに終了しています。

会期Ⅱは2021年8月1日㈰~10月24日㈰

詳細は下記サイトでご確認ください。

相国寺承天閣美術館 | 臨済宗相国寺派

 

 

 

 

相国寺の主な建物と歴史については下記ブログをご参照ください。

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

相国寺① ~焼失と再建を繰り返した相国寺の歴史~

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相国寺京都御所の北側、同志社大学の東隣という正に京都のど真ん中にあります。京都五山の第二位という大変高い寺格を誇り、四万坪という広大な敷地を持つ歴史ある寺院なのです。しかし「しょうこくじ」と正しく読めて、どこにあるのか、どんな由緒のある寺院なのかをきちんと説明できる人は、京都でもそんなに多くは無いのではないでしょうか。かく言う私も、伊藤若冲の絵に魅せられ、相国寺との深い縁を知る中で、初めて相国寺に関心を持った一人です。今回、相国寺の境内にある「承天閣美術館」の「若冲と近世絵画」という展覧会を見るために訪れてみて驚いたのは、相国寺の壮大で整然とした品格ある美しさと、それにも関わらず、ほとんど観光地化されていない静寂の美でした。こんなに立派なお寺が、洛中のど真ん中のとても便利な立地にあるのに、なぜあまり知られていないのか?不思議で仕方がありませんでした。
そこで、相国寺について私なりに詳しく調べてみて、もっともっと相国寺について知っていただきたいと思い、ここにご紹介します。

 

相国寺の場所

 

goo.gl

 

相国寺の行き方

電車で

 地下鉄烏丸線今出川駅」下車 徒歩6分

 

バスで

 京都市バス 51、59、201、203、急102系統

      「烏丸今出川」下車 徒歩7分

 京都市バス 59、201、203系統   

      「同支社前」下車 徒歩6分

 

本日のスタートは地下鉄烏丸線今出川駅」です。

北改札口から出て、同志社の北門の前を通ってから行くルートが一番近いのですが、今回は総門を通って入山したいので、南改札口から出ます。

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売店の横を通り、3番出口へ向かいます。

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表示の向こうにある階段を上がります。

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階段を上がり切ると、烏丸今出川の交差点に出ます。今出川通沿いを東(左)へ向かいます。

 

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今出川通です。右手の森は京都御所です。このまま東へ進みます。

 

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左手に同志社大学正門門衛所があります。この角を北(左)へ曲がります。

 

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突き当りに相国寺の総門が小さく見えてきました。

 

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相国寺の総門です。 創建当時は室町一条(現在地より南500m弱、西へ400m弱ほど行ったあたり。元の相国寺がどれだけ広大だったかがわかります)にあり、再建は文正元年(1466)に落成し、足利義政が初めて通行したと言われています。その後、天明の大火などで焼失と再建を繰り返し、現在の建物は寛政9年(1797)第113世梅荘和尚により復興されました。この梅荘和尚こそ、伊藤若冲の禅の師であり、また若冲の絵師としての才能を早くから見抜き、物心ともに支えてきた人です。梅荘和尚と若冲の関係については、次のブログで詳しく紹介します。

総門は平成19年(2007)に京都府指定有形文化財となりました

堂々とした立派な門ですが、格式高い寺院の割には意外とこじんまりしています。そのため、総門をくぐってからの境内の壮大さとのギャップに驚きます。

 

相国寺の門は、総門とそれに並んだ勅使門があります。総門が日常の門であるのに対し、勅使門は特別の時に開けられる門だそうです。

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勅使門の手前には鉄の柵があり、柵の外側からこのような写真しか撮れませんでした。

さっそく、総門から相国寺へ入って行きましょう。

 

総門をくぐるとすぐ、相国寺の全景図の看板がありました。

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禅宗様建築の配置は、三門、仏殿、法堂、方丈が南北にまっすぐ並んで建てられるのが特徴で、相国寺も創建当時はそのような配置だったそうです。しかし、度重なる戦火や火災で三門や仏殿は焼け落ち、再建されませんでした。それでも、法堂の北には今も方丈があります。

相国寺に来て初めて知ったのですが、京都観光の人気スポットで世界遺産金閣寺銀閣寺は相国寺の山外塔頭です。これらの方が有名というのも何だか皮肉なものですが、この理由も相国寺の歴史を紐解くと分かります。

 

 ●相国寺とは ~室町幕府との深い関係~

室町幕府三代将軍・足利義満創建

相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹で、正式名称は萬年山相国承天禅寺と言います。

  14世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建されました。幾度も焼失と復興の歴史を繰り返しましたが、現存する法堂(はっとう)は日本最古にして最大級の法堂建築として1605年に再建された物を今に伝えています。

 夢窓疎石を開山としていますが、実際には義満の終生の心の師である名僧 春屋妙葩(しゅんおくみょうは)らの尽力により建立されました。

場所は義満の私邸「花の御所」と呼ばれた室町第(室町幕府)の東隣、約144万坪の壮大な敷地に50余りの塔頭寺院があったと伝えられています。

 相国寺の「相」は宰相、首相などと同じく「しょう」と読みます。「相国」とは国をたすける、治めるという意味で、中国からきた名称ですが、日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。相国寺を創建した義満は当時左大臣つまり相国であることから、相国寺と名付けられました。また、義満の時代は中国では明の時代で、中国に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺がありました。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。

 

京都五山第二位にして実質最上位の重要ポスト

 ところで京都五山とはどういう制度なのか、調べてみました。もとは、中国南宋時代の五山官寺制度で、禅宗の保護と統制を目的に、格式高い5つの寺院を決定したことに由来しており、鎌倉時代に日本に伝わり、当初は鎌倉五山が先にありました。

 京都五山は京都にある臨済宗の五大寺で、五山ノ上(別格) 南禅寺、第一位天龍寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺で、室町幕府足利義満の時代に制度が完成しました。この格付けの根拠は、室町幕府足利将軍家と関係の深い順だったそうです。そのため、禅宗のお寺として第二位の相国寺が第一位の天龍寺より劣っているとかそういう訳でも無いようです。

 相国寺は五山では第二位に位置付けられていますが、全国の禅宗寺院を統括し、住持(住職)の任免権を持つ最高要職である「僧禄司(そうろくし)」は、相国寺創建時の立役者である春屋妙葩以来、230年余りずっと相国寺がこの僧禄司を独占しています。また、僧司禄は、平安時代遣唐使以来途絶えていた中国との国交が義満によって回復されるとともに、外交業務、外国文書の作成も行い、さしずめ外交官僚の役割も果たしていました。更に、相国寺は五山文学の中心地であり、また有名な画僧周文や雪舟相国寺の出身でもあります。つまり、相国寺室町時代において実質的には五山最上位の立場であり、幕府に対しても政治・文化面で非常に大きな影響力を持っていた寺院と言えるのです。

 

京の中心に位置するがゆえの焼失と再建の歴史

相国寺を訪れてみると、その広大で整然とした境内は、世界遺産天龍寺にも負けない立派なものです。ただ、相国寺室町幕府の隣にあり京の町の中心部にあったことから、応仁の乱を始め、幾度もの戦火に遭い、また天明の大火など大小合わせて17回もの火災にも見舞われ、その文化財の多くが焼失してしまいました。そして、多くの古文書類が焼けてしまったため、寺院としての歴史もあまり残っておらず、相国寺についての詳しい歴史を語る人がいませんでした。そのため、高い寺格のわりに、他の観光地化された神社仏閣ほどには多くの人には知られることの少ない寺院となってしまったようです。金閣寺銀閣寺も相国寺の山外塔頭ですが、元は足利将軍たちの引退後の山荘として、京都市内とは言え少し辺縁部の風光明媚な場所にあったからこそ、その文化財的価値が残せたということなのかもしれませんね。

 

では、更に相国寺の境内を散策していきましょう。

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総門を入ってすぐ見られるのが放生池です。ハスの花が咲く静かな池にかかる石橋を「天界橋」と言います。「天界」とは相国寺と御所との中間に境界線の役目をはたしていることから名付けられました。天文20年(1551)に相国寺が焼亡した天文の乱はこの橋をはさんで始まっていることから、「石橋の乱」とも呼ばれています。現在の橋材はその当時の旧材です。

 

 

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総門から入り、放生池の横を通ってまっすぐ承天閣美術館へ向かう参道が伸びていますが、先に左手の赤松の林の向こうにある、法堂へ向かいます。

境内に整然と立ち並ぶ見事な赤松林は相国寺の中でも特に印象的です。この赤松林を「般若林(はんにゃりん)」と呼びます。相国寺にはかつて学寮(寺院で僧が修行する所)があり、「般若林」という名前でしたが、天明の大火の時に焼け落ちた山門や仏殿そして学寮の跡に植えられたこの松林も、寮が廃止されてからは「般若林」と呼ばれるようになったそうです。

 

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松林の奥にひときわ存在感を放つ法堂(はっとう:重要文化財)が見えます。

法堂の初建は明徳2年(1391)ですが、以降4度の火災に見舞われ、現在の建物は慶長10年(1605)に豊臣秀頼の寄進により再建されました。禅宗様の法堂建築としては最大にして最古を誇ります。無畏堂(むいどう)とも称し、本来は畏れることなく法を説く講堂的役割を果たしていますが、天文20年の石橋の乱で仏殿が焼け落ちて以来、仏殿も兼ね、本尊を安置することから本堂とも呼ばれています。

正面28,72m、側面22.80mの堂々たる大きさです。

通常は非公開なので中には入れませんが、天井にある龍の絵は狩野光信の手になり、特定の場所で手を打つと反響するため「鳴き龍」と呼ばれます。

 

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法堂を側面から見るとこんな感じです。大きすぎて、うまく写真に納まりません。

 

 

 法堂の東横にあるのが開山堂(京都府指定有形文化財)です。

通常非公開で写真がうまく撮れなかったので、相国寺の公式サイトから拝借します。

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開山堂(開山塔)は、相国寺開山した夢窓国師像を安置しています。こちらの庭園は白砂が敷き詰められた手前の庭に石を、奥に奇岩を配した樹木が植えられています。本来表と裏の二つに分かれている禅宗の庭が一つになった珍しい庭の形態だそうです。創建当時、上賀茂から水を引き、ちょうどこの庭の中を通して御所に流してご用水としていたため、変則的な造りになったそうです。

創建当初の建物は焼失し、現在の建物は江戸時代後期に桃園天皇の皇后恭礼門院の黒御殿を賜って、文化4年(1807)に移築されました。

 

法堂の北にあるのが方丈(京都府指定有形文化財)です。

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方丈も通常非公開で、外から写真が撮れませんので、相国寺の公式サイトから写真を拝借しました。初建以来、幾度も焼失して、現在の建物は文化4年(1807)に開山塔、庫裏とともに再建されました。

 

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向かって右が庫裏(京都府指定有形文化財)で、左の建物が方丈です。

禅宗の寺院では方丈に続いて庫裏があり、寺務所と台所を兼ねています。禅宗寺院の庫裏に多い切妻妻入(きりづまつまいり)で、大きい破風や壁面が特に印象的です。文化4年(1807)の建立と伝わっています。

 

この庫裏の右手奥に進むと承天閣美術館ですが、次回紹介したいと思います。

 

法堂の前の松林の東側には、ひときわ堂々として立派な鐘楼(京都府指定有形文化財)があります。

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この鐘楼は「洪音楼(こうおんろう)」と呼ばれています。下の重が城の天守の石垣のように広がった「袴腰付鐘楼」になっており、天保14年(1843)に再建されたようです。大型のものでは現在有数の物で、楼上に梵鐘を吊るしている日本では珍しいものだそうです。

普段は非公開ですが、コロナ前は除夜の鐘としてこちらの鐘を撞くことが出来たそうです。人数制限無し、回数制限無しで、相国寺を参拝すれば誰でも撞けたそうです。

 

今回は、拝観料などを払わなくても散策できる、相国寺の主な所のみご紹介しました。(法堂、開山堂、方丈の内部は春と秋のみ有料で特別公開)

境内はとにかく広大で整然として人が少ないのですが、昼間は開放されているので、近所の人や同志社大学の学生さんなどが普通に通り抜けて行かれます。私が訪れたのは真夏でしたので、放生池のハスぐらいしか咲いていませんでしたが、それでも赤松林をはじめ木々の緑の美しさや禅寺特有の凛とした空気を感じるだけでも、何か心洗われるような清々しい気持ちになりました。

歴史に関心の無い方も、相国寺を散策し、その品格ある静寂の美を堪能し、室町幕府の政治や文化を支えた名僧たちが多数活躍した時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

 なお、相国寺では春と秋に特別公開を行っています(有料)

令和3年秋は、9月18日(土)~12月12日(日)、法堂、方丈、開山堂が公開されます。詳細は相国寺公式サイトをご参照ください。

相国寺 | 臨済宗相国寺派

 

今出川通を挟んですぐ南には京都御所もあり、こちらも街中とは思えないほどの豊かな木々の緑があふれており、絶好のお散歩スポットです。

 

京都御所の東には、桔梗の名所蘆山寺があり、こちらも夏のお散歩におすすめです。

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

 

 次回は承天閣美術館をご紹介します。

yomurashamroch.hatenablog.com

 


 

 


 

 

蘆山寺~桔梗の咲き誇る紫式部ゆかりの寺院~

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京都御所の東、梨木神社の向かい側に蘆山寺は静かにたたずんでいます。周囲は多くの寺院が立ち並ぶ寺町で、京都御所と鴨川に挟まれ、観光地のすぐ近くですが、この一帯は驚くほど静かな雰囲気です。かつて紫式部源氏物語を執筆したと言われる邸宅跡でもあります。また、源氏物語にちなんだ桔梗のお寺としても有名で、6月から9月初旬には本堂前の「源氏庭」に紫色の可憐な花が咲き誇り、多くの参拝客が訪れます。今回、蘆山寺の桔梗が見ごろを迎えていると聞き、訪ねてみました。

 

●蘆山寺の場所

goo.g

 

●蘆山寺の行き方

京阪鴨東線 「出町柳」駅より徒歩約15分

      「神宮丸太町」駅より徒歩約15分

京都市営地下鉄 烏丸線「丸太町」駅より徒歩約20分

京都市営バス「京都駅」から4・17・205系統

      「四条河原町」から3・4・17・205系統

      「府立医大病院前」下車 徒歩約5分

 

注意)「府立医大病院前」のバス停は河原町通にありますが、蘆山寺には河原町通側からは入山できません。寺町通よりお越しください。

 

 

今回のスタートは京阪鴨東線出町柳」駅です。

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叡山電鉄との連絡口である叡電口改札から出て、叡山電鉄とは反対の右手へ向かいます。

 

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コンビニの前を通り右手へ進みます。

 

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3番出口へ向かいます。

 

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突き当りを右へ曲がります。

 

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階段を上り左へ曲がります。

 

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階段を上がり切ると、右手が賀茂大橋です。橋を渡ります。

 

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賀茂大橋の北(右)には、有名な鴨川デルタが見えます。

 

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賀茂大橋を渡りそのまま進むと河原町今出川の交差点です。

横断歩道を西へ渡り、今出川通を西へ向かいます。

 

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今出川通をそのまま西へ向かいます。

 

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寺町今出川の交差点を南(左)へ曲がります。

 

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寺町通です。このまま南へ進みます。

 

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寺町通を南へ進むと、進行方向右手に御所の小さな入口(石薬師御門)が見えました。(この写真では中央奥です)御所のすぐ近くであることがわかります。今回は御所に向かわずに、寺町通をこのまま南へ300mほど進みます。

 

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寺町通の東側(左)に蘆山寺があります。「桔梗咲いています」の看板が出ていました。

 

●蘆山寺とは

蘆山寺は天台圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺と言います。天慶元年(938)、比叡山第十八世座主元三大師(がんざんだいし)良源が、京都の北、船岡山南麓に開いた興願金剛院に始まります。元三大師は比叡山延暦寺の中興の祖として知られ、命日が正月の三日であることから「元三大師」の通称で親しまれています。

一方で寛元3年(1245)に法然に帰依した住心房覚瑜が出雲路に寺を建立し、宋の廬山にならい廬山寺と称しました。

南北朝時代、この二か寺を兼務した明導照源によって蘆山寺が興願金剛院に統合されました。この時以来、寺名を蘆山から正式名称を蘆山天台講寺と改め、円(天台宗)、密(密教)、戒(律宗)、浄(浄土教)の四宗兼学道場となりました。

その後、応仁の乱の兵火に遭い、また織田信長比叡山焼き討ちにも遭遇しますが、正親町天皇(おおうぎまちてんのう)の勅命によって免れました。

その後天正元年(1573)、豊臣秀吉の京都整備によって、現在地に移転してきました。

現在の本堂は、寛政6年(1794)、仙洞御所の一部を移築して再建されました。

 

皇室とも大変ゆかりが深く、明治維新までは御黒戸 (おくろど)四箇院といって、宮中の仏事を司る寺院 四ケ寺(蘆山寺、二尊院、般船院、遣迎院)の一つでもあります。

 

紫式部の邸宅跡と源氏庭

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現在の蘆山寺は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877~933)から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅でした。

紫式部はその兼輔が建てたこの邸宅で一生の大部分を過ごしたと言われ、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子(大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したと言われています。

 

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紫式部と賢子(大弐三位)の歌碑

左・紫式部の歌

  めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし 夜半の月かな

右・大弐三位の歌

  有馬山 稲名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

 

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昭和40年(1965)11月には、境内に紫式部の邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられるとともに、「源氏庭」が整備されました。平安朝の庭園を表現した源氏庭は、白砂に映える苔がたなびく雲に見立てられ、その苔の上には、紫式部にちなんで紫の桔梗が植えられています。源氏物語に出てくる朝顔の花は、今の桔梗のことだという説もあり、6月末から9月初めまで静かに源氏庭を彩ります。
ちなみに、蘆山寺のこの場所がたまたま紫式部の邸宅跡地だったということで、紫式部と蘆山寺には特に関係は無いそうです。

 

それでは、蘆山寺に入っていきましょう。

 

●廬山寺の開祖 元三大師良源

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山門を入るとすぐ正面にあるのが元三大師堂です。こちらには、ご本尊の元三大師像が祀られています。開祖の元三大師良源は比叡山の中興の祖として崇められており、人並み外れた霊力と様々な姿に身を変えて人々を救ったという伝説があり、平安後期から鎌倉期にかけて説話集が作られました。元三大師堂では、毎月三日に護摩を行っており、自由に参加できるそうです。

元三大師は実在の人物ですが、中世以来、独特の信仰を集め、現在でも「厄除け大師」などとして民間の信仰を集めています。また、現在の寺社・仏閣で行われているおみくじは元三大師が始めたと言われています。

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(蘆山寺パンフレットより)

元三大師は宮中に出現した三匹の鬼を宝器である独鈷(どっこ)や三鈷(さんこ)で退治したという逸話があり、それに由来する行事が毎年二月に行われています。節分の「鬼おどり(節分会追儺式鬼法楽)」がそれで、赤鬼・青鬼・黒鬼が足拍子をとりながら室内に入り厄除け開運・福寿増長の護摩供が行われます。私も鬼おどりのことは話には聞いたことがありますが、一度も見たことが無いので、コロナが落ち着いた暁にはぜひ見に行きたいと思います。

元三大師堂の前を右(南)に向かい、駐車場から奥(東)へ進むと本堂に出ます。

 

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写真左手が本堂です。右手には紫式部と娘の大弐三位の歌碑が見えます。

 

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左手の受付で拝観料500円を払い、右手の玄関から靴を脱いで入ります。

玄関を入るとすぐ正面に、金色に輝く紫式部像がありました。残念ながら本堂内の写真は源氏庭のみ許可されているので、これより先は内部の写真は撮影できませんでした。

式部像の左から奥へ進みます。

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本堂前の源氏庭です。白砂と苔の緑、そして桔梗の紫のコントラストが非常に美しく、心癒される景色です。ご本尊の前の廊下から続く縁側には屋根があるので、雨の日でもゆっくり庭を堪能できます。私が訪れた日もあいにくの雨模様でしたが、数名の参拝者も座布団の敷かれた縁側に座り、写真を撮ったりしながらひたすらゆったりと源氏庭の美しさを味わっておられました。

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(蘆山寺パンフレットより)

本堂内に安置されている重要文化財のご本尊阿弥陀三尊坐像は、13世紀初めの作と言われています。来迎阿弥陀像と言われる、臨終を迎える者のもとに出現した阿弥陀如来と観音、勢至菩薩の三尊仏です。両脇の菩薩は膝を揃えた座り方で、これは正座からすぐ次の動作に移れるように少し足を動かした状態なのだそうです。衣が後方に強くたなびく様子を表すことで、亡くなられた方の魂がどこかへ行ってしまわないように、すぐに迎えに行けるようにというスピード感を表しているそうです。

この阿弥陀三尊坐像を眺めながら隣の座敷で写経を体験することもできます。目の前には阿弥陀様、横には源氏庭という何とも贅沢な環境で写経が出来るんですね。

 

●皇室ゆかりの格式高い寺院

さて、源氏庭を後にして、再度本堂の玄関から外へ出ます。

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紫式部大弐三位の歌碑の右から奥の墓地へと続く参道があります。

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上記の参道を東へ進み、突き当りを少し北へ歩くと、慶光天皇廬山寺陵があります。

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(蘆山寺パンフレットより)

慶光天皇(きょうこうてんのう)は江戸時代後期の光格天皇の父です。

光格天皇って聞いたことあるなあ、と思ったら、明治以前に在位中に譲位した最後の天皇だったのです。光格天皇以降、平成31年4月30日に第125代天皇明仁さまが退位するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかったというとで、さかんにテレビなどで解説されていましたね。ちなみに、天皇の前につく称号(例えば昭和天皇であれば昭和、明治天皇であれば明治)は、その天皇崩御されてから贈られる称号なので、明仁上皇のことを平成天皇と呼ぶのは誤りだそうです。

話を戻して、その光格天皇の前の天皇は後桃園天皇だったのですが、後桃園天皇には男子がいませんでした。そのため、後桃園天皇崩御した後は、慶光天皇の男子であった光格天皇が即位することになりました。

 

慶光天皇は、江戸時代には閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)と呼ばれていました。光格天皇が即位すると、典仁親王天皇の父となります。

しかし、典仁親王の地位は天皇の臣下である大臣よりも低く、これでは格好がつきません。そこで、光格天皇は父の典仁親王太上天皇の尊号を贈ることを計画しますが、幕府の反対に遭い、それはかないませんでした。

その後、明治17年になってから、典仁親王明治天皇の高祖父にあたるということで、慶光天皇諡号(しごう)が贈られるとともに太政天皇の尊号も贈られ、光格天皇の意思は100年近く経って叶えられたそうです。

そしてそのお墓も宮内庁の管理となっています。

蘆山寺墓地には、一般の墓地の中に、皇室の方々のお墓も点在しています。詳細は不明ですが、夭折された方が多いのではないかと言われています。

 

●秀吉の遺構 御土居の跡

この墓地の一番東の奥に、こんもりと樹木が茂っている所があります。

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これが御土居(おどい)です。蘆山寺の公式サイトやパンフレットには書いてあるのですが、蘆山寺の現地へ行っても、全然表示が無いので、どこにあるのかわからず、受付の方にお聞きしました。墓地の奥にある、とだけ教えていただき行ってみたのですが、まだわかりません。お盆の期間だったので、たまたまご住職の方がお墓におられ、「御土居はどちらにありますか?」と尋ね、本当に墓地の一番奥の樹木が茂って高くなっているあたりだとわかりました。

御土居は天下統一した豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。

広い京都を縦長に囲み、全長は22.5㎞ありますが、現在残されている場所は少なく、国の史跡に指定されている地点は9か所です。

蘆山寺の御土居はそのうちの一つなのです。

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御土居の東端の多くの部分が河原町通と合致しているので、ほとんどは市街地化して取り壊されているようです。河原町通の西沿いが御土居の位置にあたるわけです。

蘆山寺の御土居のように、河原町通に沿って残っているのも貴重だそうです。さすがに墓地の中だったので、壊されなかったのでしょう。

ブラタモリによると、御土居に上がれる所はあまり無く、蘆山寺の御土居はそういう意味でも一見の価値ありです。

 

f:id:yomurashamroch:20210813211023j:plain 御土居の向こうは京都市でも随一のにぎやかな界隈、河原町通にも関わらず、蘆山寺の境内はそんな喧噪とは全く別世界の凛とした空気に包まれています。桔梗の季節だけでなく、四季折々の自然の美しさを味わえる蘆山寺は、各電車の駅からは徒歩15分前後と近くはありませんが、恰好のお散歩コースです。また、向かいには梨木神社、御所やその北にある相国寺なども徒歩圏内にあり見どころ満載ですので、蘆山寺と合わせて訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

法金剛院 ~極楽浄土を模したハスの庭園~

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京都市右京区花園の妙心寺にほど近い法金剛院は、京都でも有数のハスの名所で、「ハスの寺」とも呼ばれています。

平安時代鳥羽天皇中宮 待賢門院が極楽浄土を模して造園させた池泉回遊式浄土庭園があり、苑池や鉢には世界中のハスが集め植えられ、毎年7月のハスの見ごろの時期には「観蓮会(かんれんかい)」を開催し、朝7時から16時まで拝観できます。(2021年は7月10日から8月1日まで。7時30分から12時半までの受付。閉門13時)

早朝に開花し、お昼ごろにはしぼんでしまうハスを楽しむためには、早朝のうちに見たいものです。でも、京都のほとんどの寺院の開門は9時ころ。ハスの開花時期は京都でも最も暑い時期なので、涼しい早朝の時間帯からハスを楽しむことが出来る観蓮会はありがたいですね。7月の1か月ほど、ずっと観蓮会として早朝拝観できる所は、京都でも法金剛院ぐらいです。私はうん十年前、会社に勤め始めた頃に、職場の上司から法金剛院の観蓮会のことを聞き、一度行ってみたい…と思っていました。

今回やっと、この法金剛院の観蓮会を訪れることが出来たので、ここにご紹介します。

 

●法金剛院の場所

goo.gl

 

●法金剛院の行き方

・JR嵯峨野線「花園」駅から徒歩5分

京都市バス、京都バス「花園扇野町」バス停下車すぐ

 

●法金剛院とは

法金剛院は、京都でも珍しい律宗(りっしゅう)に属しています。律宗は、鑑真が中国から伝えたことに始まる南都六宗のひとつで、奈良の唐招提寺(とうしょうだいじ)が総本山です。

この寺は、平安時代の初め、天長の頃(830年)右大臣清原夏野(きよはらなつの)が山荘を建て、死後 寺として双丘寺(ならびがおかでら)と称しました。その頃、珍花奇花を植え、嵯峨、淳和、仁明の諸天皇行幸を仰ぎました。殊に仁明天皇は内山に登られ、その景勝を愛で、五位の位を授けられたので、内山を「五位山(ごいさん)」と言います。

その後、文徳天皇が天安2年(858)大きな伽藍を建て、天安寺とされました。

平安時代の末、大治5年(1130)、待賢門院が天安寺を復興し、法金剛院とされました。待賢門院は藤原氏の出身で、鳥羽天皇中宮であり、崇徳天皇後白河天皇の母でもあります。

寺は五位山を背に中央に池を掘り、池の西に西御堂(現本尊丈六阿弥陀如来)、南に南御堂(九体阿弥陀堂)、東に待賢門院の寝殿が建てられ、庭には青女(せいじょ)の滝を造り、極楽浄土を模した庭園としました。池庭の造営には静意(じょうい)が、「青女の滝」は林賢と静意が巨岩を並べた滝石組を行いました。

その後、三重の塔、東御堂、水閣が軒を並べ、桜、菊、紅葉の四季折々の美観は見事なもので、西行はじめ多くの歌人が歌を残しています。

「なんとなく芹と聞くこそあはれなれ 摘みけん人の心知られて」西行

「芹摘む人」と言うのは后など高貴な女性にかなわぬ恋をすることを意味します。西行は美貌の待賢門院を深く思慕していたと言われています。 

 

その後、法金剛院は度重なる災害や応仁の乱などの戦乱により、壮観を誇った当時の面影は今は無く、駅前にありますが、小さくひっそりとした寺院となっています。

このように法金剛院の庭園は時代とともに変化していきましたが、数少ない平安時代の庭園の中で、発願者や作者の名前、作庭の過程が明白である非常に貴重なもので、国の特別名勝に選ばれています。

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それでは、お散歩にでかけましょう。

本日のスタートはJR花園駅です。

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改札を出て丸太町通りを西(左)へ向かいます。

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100mほど西へ進みます。

 

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信号があるので、丸太町通りの北側へ渡ると、法金剛院の駐車場前です。

丸太町通りを少し東へ戻ります。

 

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法金剛院の表門です。


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観蓮会の時期はこちらではなく、駐車場側の入口から入るようです。

もう一度丸太町通りを西へ向かいます。

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駐車場を入って右手に拝観受付があります。

拝観料500円を払って入場します。

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7月も下旬でしたが、まだ紫陽花が咲いていました。

 

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早速、ハスの鉢植えがお出迎えです。こちらはまだ咲いていませんでしたが…

参道を進むと苑池につきあたり、左に曲がると…

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ハスの鉢植えがズラリと並んでいて壮観です。入って来られる参拝者たちも思わず「ほお~」と感嘆の声を上げ、皆一様にスマホやカメラでハスを撮影していました。

もとは法金剛院でもハスは苑池にしかなかったそうですが、鉢植えのハスを置き始めたところ人気となり、どんんどん増えていったそうです。

 

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まずはご本尊をお参りします。

法金剛院には本堂という名称のお堂はありませんが、礼堂が法金剛院の本堂に相当するそうです。礼堂とは、普通は本堂の前の礼拝用のお堂のことです。

1970年前後の右京区丸太町通りの拡張により、法金剛院境内の南側が削られることになったため、本堂を移設して礼堂とし、本尊を安置する仏殿や庫裏を新設しました。通常は仏殿が本堂のことを指しますが、法金剛院の仏殿は収納庫の役割を果たしています。

 

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靴を脱いで、受付で渡されるスリッパに履き替えて、礼堂に上がります。表示に従い仏殿へ向かいます。

 

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渡り廊下を渡って仏殿へ向かいます。

 

仏殿内にはご本尊の阿弥陀如来像(国宝)を始め、僧形・文殊菩薩地蔵菩薩、十一面観世音菩薩など平安時代から鎌倉時代にかけての大変古くて立派な仏像が多数安置され常時公開されています。しかし残念ながら写真撮影は不可でした。

ご本尊の阿弥陀如来像は平安時代の作で、丈六の寄木造、定朝様の流れを汲む藤原仏の特徴を持ち、定朝の直系の弟子、院覚の作と伝えられています。その出来栄えがあまりに立派であったため、院覚は鳥羽上皇から法橋(中世以降、僧侶に準じて医師、絵師、仏師などに与えられた称号)の位を授けられました。古くは平等院・法界寺 と共に定朝の三阿弥陀と言われたそうです。また台座の蓮弁の彫刻は一枚一枚デザインが違う、繊細かつ豪華なものです。

平安時代の仏像がこんなにきちんと残っているというだけでも、とてもありがたい気持ちになりますが、更に、やさしくておおらかなお顔を間近に眺めていると、コロナ禍ですり減った心と体を救っていただけそうな、とても穏やかな気持ちになりました。

 

さて、ご本尊のお参りも済ませたので、今回の目的、ハスの鑑賞に参りましょう。

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礼堂の前にもハスの鉢がずらり。

 

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礼堂を出て苑池に向かうと、世界中から集められ栽培されたというたくさんのハスの花が並んでいます。周囲に人がいないのを確認してマスクを外してみると、ハスの清々しい香りが漂い、心洗われる思いです。

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鉢植えなので間近で写真を撮影できるのが嬉しいですね~

ハスの花は大ぶりでどっしりとしていますが、間近で見ると繊細な美しさもあり、また様々な種類があるので、本当に見ごたえがあります。

 

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苑池のハスは盛りを過ぎたようで、花の数はまばらでしたが、ハスの葉が池一面を覆い尽くし、これはこれで神秘的な雰囲気を漂わせていました。

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石仏群

 

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特別名勝に指定されている滝石組「青女(せいじょ)の滝」です。日本最古の人口滝と言われています。

青女の滝は長らく土に埋もれていたものが、1968年に法金剛院で発掘されて、今のように整備されたそうです。

数年前までは水が流れておらず、大雨の直後だけ当時のように滝が見られたそうですが、今は常時水が流れています。

 

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開いた花とつぼみのコラボレーションもかわいらしいですね。

 

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鉢植えのハスは、葉の方が背が高いものもあり、傘をさしているようです。

 

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ちょっとわかりにくいですが、つぼみの上にトンボが止まって一休み。

これも間近で見られる鉢植えならではの楽しみです。

 

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法金剛院は関西花の寺二十五ヶ所の十三番目の霊場でもあり、周辺の地名である「花園」の由来ともなっている由緒ある寺院です。春の桜、初夏の紫陽花や花菖蒲も見事だそうですが、やはり「ハスの寺」の別名にもある通り、ハスが一番有名です。

 

「観蓮会」は2021年は8月1日で終了しますが、ハスの花は鉢植えならまだしばらくは楽しめそうです。8月2日からは通常通りの9時開門に戻りますが、開門すぐなら、ハスは咲いていると思います。今年の夏は少し早起きして法金剛院を訪ね、極楽浄土さながらの光景を楽しんでみてはいかがでしょうか。

近隣には、徒歩10分足らずの場所に妙心寺があります。こちらの退蔵院も四季折々の自然の美しさを堪能でき、本当におすすめです。法金剛院へお越しの際は、是非こちらにも足を伸ばしてみてください。

 

今回は、JR花園駅から徒歩で法金剛院へ向かい、ご本尊の参拝から庭園の散策を含め、小一時間ほどでした。夏の暑い時期には、水分補給をお忘れなく、また法金剛院内のトイレは使用出来ませんので、お気をつけください。

 

 

妙心寺 退蔵院については以下のブログで詳しくご紹介しています↓

 

yomurashamroch.hatenablog.com