相国寺は京都御所の北側、同志社大学の東隣という正に京都のど真ん中にあります。京都五山の第二位という大変高い寺格を誇り、四万坪という広大な敷地を持つ歴史ある寺院なのです。しかし「しょうこくじ」と正しく読めて、どこにあるのか、どんな由緒のある寺院なのかをきちんと説明できる人は、京都でもそんなに多くは無いのではないでしょうか。かく言う私も、伊藤若冲の絵に魅せられ、相国寺との深い縁を知る中で、初めて相国寺に関心を持った一人です。今回、相国寺の境内にある「承天閣美術館」の「若冲と近世絵画」という展覧会を見るために訪れてみて驚いたのは、相国寺の壮大で整然とした品格ある美しさと、それにも関わらず、ほとんど観光地化されていない静寂の美でした。こんなに立派なお寺が、洛中のど真ん中のとても便利な立地にあるのに、なぜあまり知られていないのか?不思議で仕方がありませんでした。
そこで、相国寺について私なりに詳しく調べてみて、もっともっと相国寺について知っていただきたいと思い、ここにご紹介します。
今回は相国寺の境内にある「承天閣(じょうてんかく)美術館」をご紹介します。
●承天閣美術館の場所
●承天閣美術館の行き方
電車で
バスで
51、59、201、203、急102系統
「烏丸今出川」下車 徒歩7分
59、201、203系統
「同志社前」下車 徒歩6分
本日のスタートは地下鉄烏丸線「今出川駅」です。南改札口から出て、総門を通って入山するルートもありますが、今回は近道をして北改札口から出ます。
南改札から出るルートは以下をご参照ください。
相国寺の歴史と、立派な寺院なのにあまり観光地化されていない理由も私なりに考えてみました↓
今回は北改札口から出ます。
北改札から出て右前方の出口1へ向かいます。
右手の階段を上がります。
階段を上がり切ると、烏丸通です。向かい側右手には同志社大学の寒梅館(レンガ造りの建物)が見えます。横断歩道は渡らずに烏丸通を北(右)へ進みます。
右手も同志社大学です。今出川キャンパスの前の烏丸通沿いを北へ進みます。
一つ目の信号を東(右)へ曲がります。「相国寺」の看板が出ています。フルーツパーラーヤオイソの手前です。
40mほど進むと相国寺の門です。こちらから入山します。
入ってすぐ参道の北側(左)に瑞春院があります。水上勉の小説「雁の寺」のモデルにもなった塔頭です。詳しくは次回のブログでご紹介します。
瑞春院の前の参道をそのまま東へ進みます。背の高い松林が続き、伝統と格式を感じます。
とにかく広大な境内です。松林も堂々とまた整然と立ち並び、歩いているこちらの背筋まで伸びる思いです。一つ目の四辻の左前に「承天閣美術館」の看板が見えました。このまま前方(東)へ進みます。
参道の左手(北)になだらかな石の階段があります。この階段の向こうにひときわ大きな建物が見えます。重要文化財 法堂(はっとう)です。度重なる火災により、本尊を安置していた仏殿は焼失し、現在はこの法堂に安置されていることから本堂とも呼ばれています。こちらも4度の火災に見舞われ、現在の建物は慶長10年(1605)に豊臣秀頼の寄進により再建されました。禅宗様の法堂建築としては最大にして最古を誇ります。詳しくは前回のブログをご参照ください。
法堂の前の参道に戻ります。二つ目の四辻の左側にも「承天閣美術館」の看板が見えています。この四辻を北(左)へ曲がります。
四辻を曲がったところです。この参道をまっすぐ北へ進みます。
相国寺の春と秋の特別拝観の看板が見えます。この看板の横を通り抜け奥へ向かいます。
正面が庫裏(くり)、左手が方丈です。
禅宗の寺院では方丈に続いて庫裏があり、社務所と台所を兼ねています。切妻妻入(きりづまつまいり)で、大きい破風や壁面が特に印象的です。
左手の方丈は住職の住居です。通常は非公開です。
詳しくは前回のブログを参照ください。
庫裏の手前を東(右)へ向かいます。
承天閣美術館の入口です。中へ入って行きます。
相国寺の境内と同様、何もかもが厳粛に整えられた静寂の美しさに、またもや背筋の伸びる思いです。青紅葉の緑色が目に涼やかです。
承天閣美術館です。入口の左横に「普陀落山の庭」という枯山水の庭園があるそうですが、写真を撮り忘れましたので相国寺の公式サイトから拝借します。
「普陀落山」とは、南の海にあるという山で、観音菩薩が住む浄土とされています。庭を囲むように配置されたソテツの木が南国風の雰囲気を感じさせるそうです。
●承天閣美術館とは
相国寺は、臨済宗相国寺派の大本山で、絶海中津や横川景三といった五山文学を代表する禅僧や、如拙・周文・雪舟らの日本水墨画の基礎を築いた画僧を多く輩出してきました。相国寺開山以来600円余の歴史により、中近世の墨蹟・絵画・茶道具を中心に多数の文化財を伝えて来ました。
昭和59年(1984)4月、相国寺600年記念事業の一環として本山相国寺・鹿苑寺(金閣)・慈照寺(銀閣)・他塔頭寺院に伝わる美術品を収蔵・展示等を目的として承天閣美術館が建設され、国宝5点、重要文化財145点を含む多くのすぐれた文化財が収蔵され、様々な展覧会を行っています。
今回はこの「若冲と近世絵画」展を見て来ました。
若冲を導いた大典禅師(梅荘顕常)の存在
伊藤若冲と相国寺は非常に深い関係にあります。この二つを結びつけたのは、相国寺の僧 113世 大典禅師(梅荘顕常 ばいそうけんじょう とも言います)でした。大典は若冲より三歳年下でしたが、五山文学のすぐれた学僧で、水墨画などの芸術にも長けていました。
その大典がいち早く才能を見出したのが、伊藤若冲でした。現在の錦市場にあった青物問屋の跡取りとして家業に励む傍ら、絵を描くことに夢中だった若冲。大典は信仰や生活上の師であり、なんと若冲を相国寺に住まわせ好きなだけ絵を描かせるなど、様々な面で援助しながら、その成長を見守りました。「若冲」という画号も大典の命名であると言われています。
若冲もまた、大典を師と仰ぎ、禅の教えを学ぶとともに、相国寺などが所蔵する中国絵画を模写する機会にも恵まれながら、その腕を磨きました。当時の日本の画壇の最高峰であった狩野派の画法の基礎となったのが中国画の花鳥図です。しかし中国の花鳥図も、写生すなわち動植物の生気や生態を写すことを目標にしており、そんな中国画を模写しても到底敵わない。直接本物の生物について学ばねば…と思い、若冲は自宅の庭にたくさんの鶏を飼って、その生態をつぶさに観察し写生しました。「鶏の画家 若冲」の元となったこのエピソードは大変有名です。その後若冲の描く動植物の絵画は、図鑑のように正確でありながら生き生きとした生命力も感じられるすばらしい特長を持つものになりました。
若冲は特に絵の師匠などに師事せず、ほとんど独学で絵の才能を磨いたと言います。そんな孤高の絵師 若冲に、相国寺の山外塔頭鹿苑寺(金閣)の大書院の障壁画全50面を依頼することを口添えしたのが大典でした。この障壁画は若冲が44歳の時の作品。まだキャリアも実績も無かった若冲に、後水尾天皇(1596~1611年)が行幸された時にお入りになったこともある貴人の間の障壁画を任せるとは、大典はよほど若冲の才能を認めていたということでしょう。
そして更に、二人の深い関係をあらわすエピソードとして、若冲は1765年に、あの有名な「動植綵絵(どうしょくさいえ)」や「釈迦三尊像」を相国寺に寄進しました。
「動植綵絵」は若冲の40代にあたる約十年の歳月を費やした大作です。「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)」つまりこの世に存在する一切のものは、生命を持つものも持たない物も、すべて仏である、といういわばアニミズムの思想に基づいて描かれました。このような大作の企てを発案し、制作をつづける若冲を絶えず励まし、完成に導いたのが大典だったのです。
若冲は「釈迦三尊像」3幅と、仏を取り巻く様々な動植物が極彩色で描かれた「動植綵絵」を、亡き両親と弟、そして自分自身の永代供養を願って相国寺に寄進しました。このことは、会心の作を大寺に預けておくことで、ながく世に残そうという絵師としての念願もこめられていたのかもしれません。
これを受け入れた相国寺では、毎年、年中行事の中でも最も重要な儀式の一つである「観音懺法(せんぽう)」でこの作品を飾り、若冲の遺志に報いてきました。
幸いにもこの「動植綵絵」は、「釈迦三尊像」とともに、天明の大火での焼失を免れました。しかし、明治維新の折の廃仏毀釈は、伝統ある相国寺の維持を困難に陥れました。この窮状を救うため、明治22年(1889)、京都府知事のあっせんで「動植綵絵」30幅が皇室に献上され、それに対し金一万円が下賜されました。この金額で、相国寺は現在の四万坪という広大な境内を確保できました。若冲が百年の時を経て相国寺を救ったのです。ここにも若冲と相国寺の深い縁を感じ、感慨深いものがあります。
若冲と相国寺の関係をわかっていただいたところで、今回の「若冲と近世絵画」展をご紹介していきます。
18世紀の京都では、多くの絵師たちがその腕を振るいました。今回は相国寺と深い関わりのある京の絵師たちの絵画を中心に展示されています。
第一章は「伊藤若冲と相国寺」と題し、若冲の「釈迦三尊像」などの作品を通じ、相国寺の僧侶と絵師達の交流の軌跡を追います。
ここでは何といっても「釈迦三尊像」3幅が一度に見られるのがポイントです。中国の画家張思恭の釈迦三尊像を模写したものだそうです。真ん中に釈迦如来像、釈迦の右に文殊菩薩、左に普賢菩薩が並び、色鮮やかに彩色がほどこされ、特に釈迦如来の座る台座や三尊の衣の繊細華麗に装飾され描き込まれているさまは、めまいがしそうな美しさで、誰もが立ち止まって見入っていました。
伊藤若冲筆 釈迦如来像(中央)文殊菩薩像(右)普賢菩薩像(左)
承天閣美術館公式サイトより
第二章は「天明の大火とその復興」と題し、京都市中の大部分を焼き尽くし、京都に大きな爪痕を残した天明の大火(1788年)関連の資料と、そのあとに再建された相国寺方丈を彩った、原在中による杉戸絵が紹介されるなど、相国寺の僧と京絵師たちの災害からの復興に向けた軌跡が見てとれます。
原在中筆 相国寺方丈杉戸絵 三十六面のうち 承天閣美術館公式サイトより
ここまでが第一展示室です。
第一展示室と第二展示室をつなぐ中央回廊からは美しい枯山水の庭が見渡せます。
第一展示室と回廊、回廊と第二展示室をつなぐ廊下の窓には、若冲の「群鶏図押絵貼屏風」の鶏の絵がすりガラス風にデザインされていて、目を楽しませてくれます。若冲の自宅の庭にも、このようにたくさんの鶏が放し飼いにされ、歩き回っていた様子を思い浮かべました。
続いて第二展示室です。
第三章では「金閣寺、銀閣寺の障壁画」として、相国寺派寺院を彩ってきた、絵師達の個性あふれる名品のうち、鹿苑寺(金閣)からは若冲の鹿苑寺大書院障壁画五十面(重要文化財)、慈照寺(銀閣)からは与謝蕪村の方丈上官之間の障壁画「山水人物図」や池大雅による慈照寺境内図などが見られます。
若冲の障壁画のうち「葡萄小禽図(ぶどうしょうきんず)」は、最も格式の高い「一之間」を飾っていました。葡萄は旺盛な生命力で四方へつるを広げ、さらに多くの実が集まって房となることから、多産、豊穣の象徴として古くから好まれてきたそうです。
垂れ下がる葡萄の房や、ところどころ虫食いの穴の空いた葉の感じ、つるの先がクルクルとらせん状に垂れる様子など、リアルに表現されています。墨の濃淡だけで描かれた水墨画なのですが、繊細に描き込まれ、むしろ西洋美術のような印象です。このようなモダンな絵が、江戸時代に金額寺の大書院に飾られていたというから驚きです。
第四章では、18世紀の京都画壇の名宝と題し、これも若冲と同時代の絵師 円山応挙の名作「七難七福図鑑」、全長4mの「大瀑布図」(重要文化財)など大作が並びます。この頃、京では若冲をはじめ、先の与謝蕪村、池大雅、円山応挙など、錚々たるメンバーが大典禅師を慕って相国寺を訪れていたそうです。私でも名前を知っているぐらいの日本史の教科書でもおなじみの絵師たちが、相国寺で大典禅師を囲んでお互い切磋琢磨していたのかもしれないと想像すると、なんだかワクワクしてきます。相国寺という、京の文化の中心地に、大典禅師という良き理解者がいたことで、この時代の新しい絵画文化が花開いたのですね。
さらに、これらの展示の奥に、常設展示として鹿苑寺大書院障壁画が展示されています。第三章のように画面だけが壁に飾ってあるのではなく、展示室内に、鹿苑寺の大書院の一部、壁や畳、床の間などが復元されていて、その襖に描かれた絵が展示されているのです。
葡萄小禽図(承天閣美術館公式サイトより)
私はこの月夜芭蕉図には本当に度肝を抜かれる思いでした。先ほどの葡萄小禽図のモダンな感じも驚きでしたが、この月夜と南国の芭蕉とは何ともエキゾチックというか…由緒正しき金閣寺の賓客の間の壁に、こんな斬新な絵が飾ってあったなんて!こんな題材を選んだ若冲の大胆さと、それを認めた大典禅師の英断に心から感服しました。題材は斬新で前衛的ですが、墨の濃淡だけで繊細に表現された月夜と芭蕉は、芭蕉を左端に大きく寄せて右側の余白を活かし、これは間違いなく和のテイストです。そしてそこはかとなく無常観も漂い、金閣寺の調度に自然に溶け込み、美しく飾っていたのだと思います。
これら二つの障壁画は常設展示なので、いつでも承天閣美術館で見ることが出来ます。若冲というと「動植綵絵」に代表される色鮮やかな作品のイメージが強いかもしれませんが、このような水墨画にも、対象をこれでもかという程リアルに精密に描きつつ、その生命力、息遣いから「草木国土悉皆成仏」全ての物に宿る仏性までも表現する若冲の画力が遺憾なく発揮されており、これを見るだけでも値打ちがあると思います。
相国寺という禅宗寺院特有の凛とした空気の中、承天閣美術館で若冲を始めとする様々な寺宝を堪能し、静かな時間を過ごしてみませんか。
会期Ⅰはすでに終了しています。
会期Ⅱは2021年8月1日㈰~10月24日㈰
詳細は下記サイトでご確認ください。
相国寺の主な建物と歴史については下記ブログをご参照ください。