京都おすすめ散歩道

定番から穴場まで京都のお散歩コースを地元民の視点からご紹介

御髪神社~ハスの池のほとりに佇む日本で唯一の髪の神社~

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小倉百人一首にも詠まれた小倉山のふもとにひっそりと佇む、日本で唯一の髪に携わる業の始祖をご祭神とする神社~御髪神社(みかみじんじゃ)があります。

小さな神社ですが、髪に携わる理容、美容(化粧品、洗髪剤、育毛剤、カツラ等)の会社の発展祈願だけでなく、理容・美容師の国家試験合格祈願、一般の頭髪・育毛の発毛祈願はもとより頭髪から頭にちなんで各種試験合格など、多くの人々が全国から参拝に訪れます。嵯峨野の竹林の近くのちょっと奥まった場所にあり、何となく神秘的な雰囲気もあるこの御髪神社をご紹介します。

 

御髪神社の場所

goo.gl

 

 

御髪神社の行き方

・JR山陰本線嵯峨嵐山駅」下車 徒歩15分

嵯峨野観光鉄道トロッコ嵐山駅」下車 駅前すぐ

京福嵐山線「嵐山駅」 徒歩8分

阪急嵐山線「嵐山駅」下車 徒歩20分

 

 

今回は京福嵐山駅からスタートします。

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京都府の蔓延防止等重点措置が解除されて数日後です。蔓延防止期間は観光客もまばらだった嵐山ですが、修学旅行生や若者のグループなどの観光客で賑わいを取り戻しつつありました。

梅雨明け間近の不安定な天候でしたが、ちょうど雨が上がったタイミングを見計らって出かけました。目的地の御髪神社の前の小倉池のハスの花が見ごろかな~と思っていたのですが、ハスつながりで、ふと天龍寺にもハスの池があったかなと思い出し、急遽京福嵐山駅の向かいの天龍寺へ立ち寄ってみました。

天龍寺については以下の記事で詳しく紹介しています↓

yomurashamroch.hatenablog.com

 

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言わずと知れた世界文化遺産天龍寺は、京福嵐山駅の向かい側にあります。

こちらの入口から、まっすぐ中へ入っていくと、右手にハスの池があります。広い天龍寺の中でも、ハスの咲いている放生池(ほうじょういけ)は無料で見ることが出来るエリアです。

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思った通り、ハスの花が満開です。池の周囲は柵で囲まれていますが、柵の合間からでも、このような美しい光景を見ることが出来ます。池の周りには、私と同様にハスの写真を撮影されている方が数名おられました。ハスの花は夜明けから咲き始め、午後には元気がなくなるので、午前中のなるべく早い時間に訪ねるのがおすすめです。

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泥の中から、美しい花を咲かせるハスを悟りに見立て、ハスはお寺には欠かせない花と言われています。そんな言われは知らなくても、咲き誇るハスの花の池に極楽浄土を思い浮かべる方は多いことと思います。

ところで、同じように水辺に咲く花にスイレンもありますよね。ハス(蓮)とスイレン(睡蓮)、どちらも蓮の字が使われていて、私もどっちがどっちだったかな?と疑問に思ったので調べてみました。

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ちなみにこちらはスイレンです。

ハスもスイレンも水生植物で、水の底や泥に根を張り、水面(水上)に葉と花を展開し、初夏から夏に咲きます。午前中に満開になり、午後は閉じてしまう種が多いです。

本当によく似ていますよね~。

見分けるポイントは

①ハスは、ヤマモガシ目ハス科の挺水(ていすい)植物で、水面から葉を立ち上がらせる植物。花が水面より上の方に咲き、葉も水面より上へと立ち上がらせている。
花の花弁は、幅広で丸みを帯びて、お椀のような形で花の中央に大きな花托がある。

葉の形は円形で切れ込みが無い。

スイレンは、スイレンスイレン科に含まれる浮葉性(ふようせい)植物で、水面に葉を浮かべる植物。花が水面に咲き、葉も水面に浮かんでいる。花弁は細長くシャープな形。葉の形は円形で切れ込みがある。

 

このような違いがあります。ざっくり言うと「花も葉も水面より高い位置にあるのがハス、葉とともに水面に浮かんでいるように花が咲くのがスイレン」ということでしょうか。ちなみに熱帯性のスイレンは水面から突き出るものもあるそうです…ややこしいですね(笑)

 

さて、天龍寺のハスの鑑賞を終え、いよいよ目的の御髪神社へと向かいます。

もう一度天龍寺の入口に戻り、天龍寺京福嵐山駅の間の長辻通りを北(左)へ向かいます。

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そのまま道なりに200mほど進むと、竹林へ向かう道の入口に出ますので、スヌーピーショコラ京都・嵐山の横を西(左)へ曲がります。
 

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有名な嵯峨野の竹林を奥へと進みます。

 

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突き当たりを北(右)へ曲がります。

 

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道なりに進むと野宮神社に出ます。今回は野宮神社はお参りせず、手前の道を西(左)へ曲がります。

 

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曲がった先の道は少し上り坂になっています。この道を更に進みます。

 

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道なりに進むと、左手に天龍寺の北門があります。先ほどの京福嵐山駅の前の入口のちょうど反対側にあたります。この道をもう少し先へ進みます。

 

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深い竹林の坂道を登って行きます。

 

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坂を上り切ると、突き当りです。右前に大河内山荘があります。この道を右へ曲がります。

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右へ曲がると左手が大河内山荘ですが、今回は大河内山荘はパスして右手の道を進みます。

 

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道なりに進むと今度は下り坂です。左手に立て看板があります。落柿舎方面(右)へ進みます。

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坂道を下っていくと、右手にフェンスがあり、その向こうは嵯峨野観光鉄道トロッコ嵐山駅」です。

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フェンスの向こうに、小さな「トロッコ嵐山駅」が見えます。

このまま坂道を下ります。

 

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坂を下り切ると、左手に御髪神社の赤い幟が見えました。左へ曲がります。

 

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御髪神社の木の立て札によると、「髪は身体の最上位にあって造化の神より賜った美しい自然の冠」だそうで、その髪による恩恵に感謝する気持ちから生まれた神社だそうです。

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先ほどの立て札があった橋から、御髪神社の前にある池を見た写真です。

池一面にハスの花が咲き乱れ、雨上がりで瑞々しい木々の緑のグラデーションの中で、神秘的な美しさでした。

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ハスの池を挟んで向かい側から御髪神社を眺めるとこんな感じです。神社の方が境内を掃除されていました。

 

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ハスの池はかなり広いです。幅100メートルほどありそうです。

 

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先ほどの橋を渡って右に曲がるともう神社です。神社側から池の周りに柵などは無いので、写真撮影に夢中になりすぎて、池に落ちないよう注意しましょう。

 

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境内の横には山へ向かって石段が伸びています。この石段を登ると、小倉山への登り口に出ます。朝から小倉山へ登って降りて来られた方に何人かすれ違いました。小倉山はこちらから2~30分で登れる低い山ですが、山の上からの京都市内の眺めはなかなかのものです。初日の出を拝みに登られる方も多数おられるそうです。私はご来光はまだ拝んだことが無いのですが、いつか機会があれば見てみたいです。

 

さあ、いよいよ御髪神社をお参りしましょう。と言っても、小さな小さな神社です。

 

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鳥居と社務所、小さな本殿、髪塚、毘沙門天ぐらいしかありません。

 

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立て看板に由緒書きがあります。

ご祭神は大化の改新でお馴染みの藤原鎌足の末孫、藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき)です。

亀山市天皇の御代(1259~1274)、皇居の宝物守護の武士であった藤原基春が、紛失した刀を探すため下関に居を構えました。その時、三男の政之が生活の糧を得るため、床屋で婦女の髪結いをしていて、これが我が国の髪結い職の祖と言われているそうです。

明治39年には長野の善光寺に開祖として政之公の墓碑も建立され、昭和の初めまで、全国の理・美容業者は、敬髪と始祖のご冥福をお祈りするため、政之公のご命日の17日を毎月の定休日としていたのです。

御髪神社は、政之公を祭神として、御髪大神と称え祀り、『髪』すなわち『神』に通ずるものとして、基晴卿、政之公と最も縁の深い亀山天皇御陵地の小倉山山麓に建立され、主神の政之公の御神像をご本尊として祀っておられるそうです。

昭和36年(1961)、京都市の理美容業界関係者によって創建された、京都では比較的新しい神社です。

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髪塚です。

髪は人身の最上位にあって、造化の神より賜った 美しい自然の冠であると同時に生前に残し得る唯一の分身として、参拝の代わりに髪の毛を数本神主さんに切ってもらって献納します。献納された髪の毛は、境内の髪塚に納められます。この髪の毛は毎日神社で祈祷され、永遠にここに保管されるそうです。

 

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それではお参りしましょう。私は献髪はしませんでしたが、健康な髪でいられるようよくお願いしておきました。

 

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社務所の側面の壁に沢山の絵馬が。

毛髪の悩みを抱えたタレント達の心の叫びが読み取れます。

 

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別の側面には、理容師や美容師の国家試験合格祈願の絵馬がこれまた多数奉納されていました。

 

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本殿の左側には七福神の一人「毘沙門天」の像が。

 

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アートネイチャーやリーブ21、スカルプDなど毛髪関連の会社の玉垣が並びます。さすが全国で唯一の髪専門の神社です。

 

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社務所では様々なお守りや絵馬が授けられます。ただし、このご時世、遠方の方で直接参拝することが難しい方のために、お守りは御髪神社の公式サイトから注文することも可能です。ご関心のある方は一度公式サイトをご確認ください。

 

私が参拝している間にも、数名の参拝者がポツリポツリとですがやって来られました。その中には美容関係者の方かな?と思われるような、おしゃれないで立ちの方も見かけられました。嵐山からほど近いとは言うものの、かなり奥まった場所にあるにも関わらず、これだけ多くの人の信仰を集めているのは、やはり日本で唯一の髪の神社ということからなのでしょう。

 

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理美容関係の職業の方以外でも、髪の健康が気になる方、いつまでも美しい髪でいたい方は、一度この御髪神社を訪れてみられてはいかがでしょうか。ハスの花の見ごろは夏ですが、秋の紅葉も美しいですし、静かな自然と一体化したような独特の空気を感じられるおすすめスポットです。

今回は京福嵐山駅から、天龍寺へ寄り道しつつ竹林を通り抜けて、徒歩で約50分ほどでした。途中坂道もありますので、歩きやすい靴でお越しください。

 

嵐山周辺のおすすめスポットは以下のブログをご覧ください。

 

小倉山の隣の亀山にある亀山公園

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 

保津川をはさんで亀山公園の向かい側の断崖に建つ大悲閣 千光寺

yomurashamroch.hatenablog.com

 

 京福電車で嵐山駅から3駅の車折神社

yomurashamroch.hatenablog.com

 


 








 

誓願寺~境内に出現した新しい繁華街・新京極通と共に~

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京都市内随一の繁華街・新京極通に面して建つ、小さくとも立派な門構えの誓願寺。前を通る買い物客や観光客は多いものの、参拝する人はそんなに多くはありません。かく言う私も一度も入ったことはありませんでした。今回初めて誓願寺について調べてみると、実は大変長い歴史の中で、歴史上の偉人、特に女性たちが帰依した寺院であり、更に明治維新後に衰退しかけた京都の起死回生策の鍵となる重要な場所でもあったことがわかりました。

今回はにぎやかな繁華街の変遷を見守ってきた歴史ある寺院、誓願寺をご紹介します。

 

誓願寺の場所

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誓願寺の行き方

≪市バスの場合≫

    京都駅前(中央口)市バスA乗り場より[205系統]、[17系統]にて

    「河原町四条」または「河原町三条」下車、どちらからも徒歩約5分。

≪電車の場合≫

    ・JR京都駅より

     地下鉄にて「烏丸御池」駅で東西線に乗り換えて「京都市役所」駅下車。

     ゼスト御池出口2番または5番より南へ徒歩5分。

     または地下鉄「四条」駅で阪急電車に乗り換え「河原町」駅下車。

     阪急ときわビル口を出て新京極通を北へ徒歩5分。

      (大阪方面より阪急電車ご利用の場合も「河原町」駅より同様

    ・京阪電車より

     「三条」駅下車、三条通を西へ、新京極通を南へ

     三条駅から徒歩約10分。

 

 

今回のスタートは、錦天満宮です。

天満宮から新京極通を北上し、徒歩3分とすぐ近くに誓願寺はあります。

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天満宮は、京の台所、錦市場のある錦小路通の東の端、新京極通の真ん中辺りで、多くの観光客や買い物客が訪れる人気スポットです。

 

天満宮については以下のブログで詳しくご紹介しています↓

 

yomurashamroch.hatenablog.com

 

天満宮を出て、新京極通を北(右)へ向かいます。

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コロナ前の新京極通は、一年中、日本はもとより世界中の観光客や買い物客でごった返していましたが、この日は緊急事態宣言は解除されていたものの、あいにくの小雨模様で人通りは少なかったです。

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更に北へ進むと、蛸薬師通新京極通の交わる地点に出ます。写真右手が蛸薬師通です。

京都の通り名の唄「あねさんろっかくたこにしき~」を錦小路通蛸薬師通と逆に進んでいます。京都では北へ進むことを「上がる(住所では上ル)」、南へ進むことを「下がる(住所では下ル)」と表します。新京極通蛸薬師通の交わるこの写真の場所を少し北へ進んで「新京極蛸薬師上ル」となる場所に、蛸薬師通の名前の由来となった「蛸薬師堂 永福寺」があります。

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両側は普通の商店ですが、突然、無数の赤い幟がはためく蛸薬師堂が現れます。

お寺の前の看板にも書いてある通り、病気平癒のご祈祷で有名で、ガン封じや心身の病気平癒、所願成就の祈願をする人で、大変人気の高い霊験あらたかなお寺です。コロナ前は、いつもたくさんの参拝客で賑わっていました。

 

 ●蛸薬師堂 永福寺とは

養和元年(1181年)、比叡山薬師如来を信仰していた林秀という人物が、夢のお告げにその薬師如来が現れ「最澄が石に彫った薬師如来比叡山に埋められているので持ち帰りなさい」と告げられ、そのお告げ通りに石造を見つけて持ち帰り、その後お堂を建てて薬師如来を祀り永福寺と名付けたのが蛸薬師堂の始まりです。

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昔、この寺が二条室町にあったころ、付近に池があったことから、水上薬師または澤薬師(たくやくし)と呼ばれ、これがなまって蛸薬師になったと言われているそうです。

また一説には、この寺の善光という親孝行な僧が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、蛸を入れた箱を開けるように求められたとき、薬師如来に「この難をお助けください」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたといいます。その後、母の病気は薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を護った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来蛸薬師と呼ぶようになったと伝えられています。

 

蛸薬師堂は、大変人気のスポットで見どころ満載なのですが、境内は撮影禁止となっています。そのため、今回は入口の写真のみご紹介しました。

境内には蛸をモチーフにしたおみくじや絵馬、お守りなどのグッズが多数販売されていました。また、本堂には左手で撫でるだけで病気が治るという木彫りの蛸の「なで薬師」や、額に「多幸(たこ)」と書かれた木彫りの蛸の像、恋愛結び不動明王、「だいじょうぶだいじょうぶ仏」などなど、見ているだけでも楽しくなる物がたくさんあり、一歩踏み入れるだけでもご加護があると言われているそうです。興味のある方は是非訪れてみてください。

 

さて、蛸薬師堂を後にして、更に新京極通を北上します。

歩き始めて2分ほどで新京極通六角通の交わるあたりにある三角公園「ろっくんプラザ」に「夢舞台」というイベントスペースがあります。ちょうど、風鈴が涼し気な音色を響かせていました。

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この日は小雨が降ったりやんだりの梅雨の時期らしい蒸し暑い一日でしたが、爽やかな風鈴の音色に一時暑さを忘れました。

そしてこの風鈴の「夢舞台」の真正面が、今回の目的地「誓願寺」です。

 

誓願寺とは

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 誓願寺飛鳥時代天智天皇6年(667)、天皇の勅願により創建されました。もともとは奈 良にあったのですが、鎌倉時代に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、その後天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町に移されました。

清少納言和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高い寺院です。

平安時代後期、浄土宗の法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になりました。現在は法然上人の高弟・西山上人善恵房空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山です。

 

では、さっそく誓願寺に入っていきましょう。

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門を入るとすぐに立派な本堂の入口です。奥には金色に輝くご本尊の阿弥陀如来坐像が見えます。その大きさは、なんと坐像で2.75m!見上げるような大きさです。

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奈良時代の創建当時の阿弥陀如来像は、度重なる火災で焼失してしまい、現在のご本尊は、もとは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に安置されていた阿弥陀如来坐像で、神仏分離が行われていた明治2年、誓願寺に移安されました。

体が光っているので金属製に見えますが木製です。幾度も塗り重ねられた漆で表面は覆われていて、寄木造布貼の丈六の坐像で、平安時代後期の定朝様で鎌倉時代から南北朝時代頃の作とみられています。

 

誓願寺と女人往生

誓願寺では、平安時代に歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生しているそうです。ひとりは清少納言誓願寺菩提心を起こして尼となり、本堂そばに庵室を結びました。その後、念仏を唱えて往生をとげたそうです。

 もう一人は和泉式部です。娘に先立たれ、その哀しみから世の無常を感じた式部は、播州書写山へ高僧・性空上人を訪ねました。ところが「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われ、石清水八幡宮へ参って祈ると、夢に老僧が現れて「誓願寺で祈るべし」と告げられました。そこで、誓願寺に48日間もこもって一心に念仏を唱えたところ、今度は夢に老尼が現れて「念仏を唱えれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあったそうです。式部は尼となって庵を結び、ここでめでたく往生したそうです。この庵室が、同じ新京極通にある「誠心院」です。

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誓願寺天正19年(1591)一条小川から三条寺町の現在の場所に移転しました。

その際、豊臣秀吉の側室、松の丸殿の深い信仰による助力があったそうです。そのころ松の丸殿は一条小川にあったすぐ近くの屋敷に住んでいて、誓願寺天正元年の火災により荒廃していたそうです。松の丸殿は、和泉式部の女人往生伝説を耳にされ、誓願寺再興への思いから、諸大名の奥方にも勧進され、壮大な堂塔が建立されました。誓願寺の寺紋「三つ盛り亀甲に花菱」は、松の丸殿の京極氏の家紋「三つ盛り亀甲」に由来するものです。女人往生伝説のおかげで、時の権力者の奥方の深い信仰を得、荒廃した誓願寺が大寺院に再興されたのですから、信仰の力の大きさ、恐るべしですね…

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山門の提灯に記された誓願寺の寺紋「三つ盛り亀甲に花菱」

●京都の起死回生策・新京極通の誕生

「都名所図会(安政9年(1780)刊行)によると、誓願寺の表門は寺町六角、北門は三条通りに面し、なんと6500坪もの境内に塔頭寺院が18カ寺もあり、三重の塔も見られます。

その当時、三条から四条の間の「寺町通」には大小11カ寺の寺院があり、盛り場を回るには、いちいち寺の門から出て次の寺の門をくぐる、つまり塀で仕切られた寺ごとに独立して盛り場が続いていたそうです。「誓願寺さんへ行こう」「道場へ行こう」と言えば遊び場を意味するほどに寺町界隈は洛中一賑わっていたそうです。ところが、明治維新で都が東京へ移り、幕末の戦乱「禁門の変」(蛤御門の変)で辺りは焼け野原となりました。こうした背景のもと、京都の町の復興のため、明治5年(1872)、時の京都府参事・槇村正直は、すでに芝居小屋、見世物小屋の集まっていた誓願寺境内と、四条寺町を上がった位置にあった金蓮寺境内(時宗・四条道場)に目をつけ上知(没収)し、三条~四条間に新しい路を通し、一大歓楽街を作ろうとしました。

これが現在の「新京極通」です。このため誓願寺は6500坪を有していた境内のうち、4800余坪を没収されることになりました。

しかし、そのおかげで新京極は京都第一の繁華街となり、演劇、活動写真、浄瑠璃、軍談、落語の興行場から酒場、肉屋、カフェ、球技場などまであって、昼夜賑わっていたそうです。現在は主に観光客向けの土産物屋や飲食店、ショップなどに変わっていますが、その賑わいは変わっていません。

 

 

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誓願寺の門には、観光地によくある、顔だしパネルが…

お寺にこれがあるのは珍しいのではないでしょうか。「新京極Since 1872」の文字は、明治時代に誓願寺などのお寺境内を通す形で新京極通が作られ、演劇や活動写真などのエンターテインメントで賑わっていたことを表しているのだと思います。

この写真を見た私の家族も「ああ、これが誓願寺かあ~この前はよく通るけど入ったこと無かったわ!」と話していました。これが平均的な京都人かもしれません(笑)

 

 

謡曲誓願寺」と扇塚

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世阿弥の作と伝えられている謡曲誓願寺」は、和泉式部一遍上人誓願寺の縁起と霊験を物語るものです。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなりました。これが「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっているそうです。

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また、誓願寺の住職であった策伝上人が「落語の祖」と仰がれていることも扇子との絆を象徴しています。

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誓願寺第五十五世の安楽庵策伝上人(1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていました。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書「醒睡笑」八巻は後世に落語のネタ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されています。誓願寺では毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を催し、奉納落語会を開催しています。

 

●迷子の道しるべ

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誓願寺の山門の外、北側にある石柱です。正面に「迷子のみちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあります。まだ警察の無かった江戸末期~明治中期に迷子が深刻な社会問題となり、各地の社寺や盛り場に石柱が建てられたそうです。迷子や落とし物などをした時、この石に紙を貼って情報交換したそうです。

「月下氷人」(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」とも呼ばれています。

現存の石柱は明治15年(1882)に建立されました。

 

 

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誓願寺は京都の中心地に位置するために戦乱の影響を受けやすく、これまでに10回の火災に遭っています。しかし、そのたびに多くの信者たちによって再建されてきたそうです。現在の鉄筋コンクリートの本堂は昭和39年(1964)に建てられました。

度重なる火事の悲劇は、かえって多くの人々を誓願寺に結縁させ、念仏の信仰をはぐくんできたのだそうです。

 

にぎやかな新京極通に面しているにも関わらず、一歩境内に入ると表の喧噪が嘘のように静かで穏やかな時間が流れています。長い歴史の中で多くの人々の信仰によって支えられ、また誓願寺も京都の町を見守ってきたのですね。

京都の寺院は拝観料が必要な所も多いですが、この誓願寺は拝観無料です。観光やショッピングに歩き疲れた時に、ちょっと訪れてみて、誓願寺の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。立派な阿弥陀如来坐像もお参りできますし、芸事をされている方は、扇塚もお参りすることで芸事上達のご利益があるといいですね。

 

錦天満宮~京都一の繁華街の鎮守社~

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京の台所である錦市場を真正面にして新京極通のど真ん中に鎮座する錦天満宮
繁華街唯一の鎮守社として、地元の人々はもとより世界中から訪れる観光客や買い物客など全ての人を温かく見守っています。

地元の人には「錦の天神さん」と親しまれ、広く篤い崇敬が寄せられている錦天満宮をご紹介します。

 

●錦天満宮の場所

goo.gl

 

●錦天満宮の行き方

●六角堂から錦市場

本日のスタートは六角堂です。

天満宮は、六角堂から錦市場を経て、徒歩10分余りで到着します。二か所続けて散策されるのにちょうど良い距離感でおすすめです。

 

六角堂への行き方や詳細は以下のブログをご参照ください↓

 

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六角堂の山門を出ると六角通に出ますので、東(左)へ進みます。

 

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六角通東洞院通(ひがしのとういんどおり)の交差点を南(右)へ曲がります。

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東洞院通を南へ進みます。

 

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京都の通り名の唄「あねさんろっかくたこにしき~」と歌いながら「六角通」「蛸薬師通」と確認しましょう。左手に御射山(みさやま)公園があります。この先が蛸薬師通です。そのまま南へ進みます。

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錦小路通に出ました。錦小路通沿いの左手にある八百屋さんの角を左(東)へ曲がります。

 

錦市場伊藤若冲

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曲がった先に錦市場の入口が見えて来ました!アーケード入口の上には伊藤若冲の絵をデザインした垂れ幕が。

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もう少し近づいてみると錦市場の入口の右手に小さな看板があります。

伊藤若冲生家跡」と書いてあります。若冲の生家は錦市場の青物問屋だったそうです。若冲錦市場とのつながりは, 生家があっただけではありません。

 23歳で青物問屋「桝源」の主人を務めますが、あまり仕事をせず、絵を描いてばかりいたそうで、40歳で家督を弟に譲り、その後は大好きな絵に没頭するようになったそうです。明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える「京都錦小路青物市場記録」によると、じつは若冲錦市場の存続に関して積極的な活動をおこなっていたそうです。そのころ錦市場の営業をめぐる争議が起こり、若冲は画業を中断して町年寄として解決に尽力。その結果、錦市場は窮状を脱することになりました。若冲はの錦市場の恩人であり、錦市場の「中興の祖」と言っても過言では無いのだそうです。

そんな訳で、錦市場のお店のシャッターには、若冲の絵がたくさん使用されており、シャッターが下りた時間帯でも楽しめるそうです。今回は、まだほとんどのお店が開いていましたので、良い写真が撮れませんでした…

 

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 この日は緊急事態宣言明けの初めての土曜日だったので、それなりに人出がありましたが、コロナ禍以前の賑わいからするとまだまだ…という感じでした。

 

 

●商店街の中の不思議な鳥居

さて錦市場を眺めながら400mあまり東へ進むと、

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人込みの向こうに道をまたぐように石の鳥居が…

四条通から南北に三条通まで続く二つの商店街通、「新京極通」と「寺町通」は地元の人はもちろん観光客にも人気のスポットです。修学旅行でお土産を買いに訪れた方も多いのではないでしょうか。

そしてこの鳥居は、「新京極通」と「寺町通」の間にあります。

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あらら、鳥居の両端がお店につっかえているみたいですね~(笑)

 

この鳥居、数年前にブラタモリで紹介され有名になりました。つっかえているんじゃなくて、両側のビルに突き刺さっているそうです。

なぜこんなことになってしまったのかというと、この鳥居は1935年(昭和10)に建てられたのですが、鳥居を設置した後に行われた区画整理の際、計測で鳥居の先端を考慮せずに、柱の位置だけで道路幅を決めてしまうという致命的なミスをしてしまったそうです。

そのため設計ミスのまま両側に建物が建てられることとなり、さすがに鳥居の先端を切り取るわけにはいかなかったので、鳥居の先端はビルの壁に埋め込む形で建設が進み、現在の姿になったんだそうです。こんなことあるんですね~

めり込んだ鳥居の先端はビルの中から見ることができるそうです。興味のある方は一度覗いてみてはいかがでしょうか。

 

●錦天満宮とは

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さて、鳥居の話はこれぐらいにして、本題の錦天満宮です。

「錦天満宮」は『学問の神様』として知られる天満天神(菅原道真)を祭神としています。全国の天神さんと同じく「知恵・学問」はもとより「商才」「招福・厄除け・災難除け」の神様として霊験あらたかです。

長宝5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」にあった歓喜寺を、六条河原院に移築し、その鎮守社として天満大自在天神を祀った天満宮として創建されたのが始まりです。菅原道真の生家である「菅原院」に由来していることから、後に「官公聖蹟二十五拝」の第二番目に位置付けられています。「官公聖蹟二十五拝」とは、菅原道真公を祀る天満宮の中で特に由緒の深い25社のことで、その中の第二位ですから、相当格式高い天満宮ということですね~

その後、豊臣秀吉の都市計画によって錦小路の現在地に移転し、所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになって現在に至ります。

 

●境内の見どころ色々

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「撫で牛」

天満宮が祀る天神は農作物を守る神としても信仰されており、農耕のシンボルや天神の神使であり牛の像が置かれています。

また、錦天満宮のご祭神、菅原道真は、生前 牛と深い関わりがありました。

左遷となり大宰府へと旅立った道真は、道中命を狙われますが、その時道真の命を救ったのが白牛です。道真はその白牛に乗って旅をつづけました。

また、道真が亡くなったのも丑の日でした。そのため天満宮の境内には、牛の像が奉納されるようになったそうです。 

天満宮の境内に入るとすぐ右手にあるのが「撫で牛」です。この撫で牛の頭を撫でた後に、自分の頭を撫でると頭がよくなると言われています。このご利益にあやかろうと、受験生にはとても人気があるそうです。たくさんの人に撫でられた牛の頭は、ピカピカに光っています。

ただし、現在はコロナ感染予防のため、撫で牛の前に「どうぞ、心の中で そっと撫でて下さい」と書かれた札が設置されています。

 

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 「錦の水」

京の名水「錦の水」です。この井戸は地下百尺(35m)から湧き出ており、年中17.8℃の水温を保っています。コロナ禍前までは周辺の飲食店関係者を中心に水を汲みに来る人が絶えなかったそうです。現在はこちらもコロナ感染防止のためひしゃくの使用が中止されています。

 

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「手水舎」

こちらの水も、同じ錦の水なのですが、こちらもひしゃくの使用が中止されています。

天満宮の前から始まる錦市場の発展には、錦天満宮と同じこの錦の水が欠かせませんでした。平安時代にはすでにこのあたりに市が立っていたと推測できるのは、この地が質の良い地下水に恵まれていたからにほかなりません。冷たい地下水は魚鳥の保存に適しているからで、いわば冷蔵庫代わりだったんですね。

しかし昭和35年阪急電車の延伸工事でこの錦の水が枯れてしまったことがありました。「錦市場」の存亡がかかったこの出来事に、錦市場の組合が一丸となってより深い井戸を掘り、霊水を復活させたそうです。

 

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「からくりおみくじ」

人 が近づくと、神楽が鳴り出して獅子舞が踊り始め、コインを入れると獅子がおみくじを運んでくれます。総合みくじ・和英文みくじ・和英文花みくじ・恋みくじ・こどもみくじ・よろこびみくじの6種類のおみくじがあります。

元エンジニアの宮司さんが自ら設計・製作されたそうです。

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「 からくりおみくじ(人形がおみくじを運んでくれるタイプ)」もあります。

 

 

更に、写真を撮り忘れましたが「紙芝居ロボット」もありました。

ボタンを押すと、拍子木の音が鳴り響き、紙芝居が始まります。菅原道真公のお生まれになったお話から現在に至るまでをイラストと音声で分かりやすく説明しています。

天満宮の公式サイトに紙芝居ロボットの動画がありますので、ご興味のある方はご覧ください。

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「本殿」

平安時代の学者であり、優れた漢詩人でもあった菅原道真公を皇城鎮護の神として鎮座、お祀りしています。

拝殿には高い教養と優雅な美貌の随神さまが安置され、凛とした面持ちで神社を護っています。

 

さて本殿参拝が済んだので、本殿左から奥の摂社・末社もお参りしましょう。

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塩竈神社」しおがまじんじゃ
ご祭神は源融公(みなもとのとおるこう)、ご利益は安産です。

 

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 「日之出稲荷神社」ひのでいなりじんじゃ

ご祭神は倉稲魂命(うかのたまのみこと)、ご利益は商売繁盛です。

 

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「白太夫神社」しらだゆうじんじゃ

ご祭神は渡會春彦(わたらいはるひこ)、ご利益は子授けです。

 

 

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「七社之宮」ななしゃのみや

その名の通り、七柱の神様が祀られています。

八幡神社 ご祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、ご利益は勝負

床浦神社 ご祭神は少彦名命(すくなひこなみこと)、ご利益は疱瘡除け・疫病退散

竈神社 ご祭神は竈神(かまのかみ)、ご利益は火除け

市杵島神社 ご祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、ご利益は家内安全

熊野神社 ご祭神は伊拝再尊(いざなみのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)ご利益は子孫繁栄

恵美須神社 ご祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ) ご利益は商売繁盛

事比良神社 ご祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)、崇徳天皇(すとくてんのう) ご利益は航海や漁業

 

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「大願梅」

願い紙に願い事を記し、大願梅の中におさめ木栓で封じ、境内の「大願梅の木」に奉納、または持ち帰ります。奉納された大願梅は、月次祭にお焚き上げされます。

 

 

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京都一の繁華街の真ん中に鎮座する小さな天満宮ですが、見どころ満載、ご利益満載ですね。近くには六角堂や蛸薬師堂、八坂神社や建仁寺など有名なスポットも徒歩圏内にたくさんあります。京都観光のルートの一つに加えてみてはいかがでしょうか..

 

 

六角堂~生け花発祥の地である都会のオアシス~

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京都の通り名の唄「まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき~」にも登場する六角通に面して六角堂はあります。京都の人にはおなじみの唄ですが、名探偵コナンの映画『迷宮への十字路』でもこの唄が鍵となっていたので、他の地方の方でも聞いたことがあるかもしれませんね。

六角堂の正式名称は紫雲山頂法寺で、天台系の単立寺院です。

本堂の形が六角形であることから、古くより「六角堂」の通称で親しまれています。

聖徳太子が創建したと伝えられ、本尊如意輪観音像が人々の信仰を集めてきました。

華道家池坊が住職を務め、いけばな発祥の地としても知られています。

京都のほぼど真ん中、オフィスビルの立ち並ぶ一角に佇む都会のオアシスのような寺院です。観光はもちろん、オフィスビルに勤めるサラリーマンのランチ後の散策に、地元の方の犬の散歩に、近隣の予備校生のお参りに、とそれぞれにこの寺院での時間を楽しんでおられます。

今回は、古くて新しい、いつの世も人々に親しまれている六角堂をご紹介します。

 

 

六角堂の場所

goo.gl

 

六角堂への行き方

電車で   ・京都市営地下鉄烏丸御池」駅出口から徒歩3分

      ・阪急京都線「烏丸」駅21番出口から徒歩5分

      ・阪急河原町駅から約5分

 

徒歩で   ・京都文化博物館から4分

      ・錦市場高倉通側)から6分

      ・四条河原町から15分

 

タクシーで ・京都駅から約10分

      ・京阪三条駅から約10分

 

 

阪急「烏丸駅」から六角堂へ

今回は阪急京都線「烏丸」駅からスタートします。

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西改札口から出ます。ちょうど四条烏丸の交差点の真下辺りです。

改札を出て右手に以下のような案内板があります。

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案内板に従って21番出口へ向かいます。

 

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案内表示の通り、地下道を進みます。

 

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京都三井ビルディングに出ます。天井の案内表示に従って、烏丸通り出口(左側)の階段を上がります。

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烏丸通に出ました。この通り沿いを北(右)へ進みます。

「(あねさん)ろっかく たこ にしき 」と歌いながら、その歌の反対の順に「錦小路通り、蛸薬師通り、六角通り」と確認しながら300mほど進みましょう。

 

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右手に花屋さんが出てきたら、その先が六角通です。この交差点を右へ曲がります。

 

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六角通の北側(進行方向左側)に六角堂があります。ビルの谷間に木々の緑が爽やかな風を運んでくれる、不思議な空間です。

 

六角堂とは

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六角堂は起源が定かではありません。寺伝によると、587年(用明天皇2年)に聖徳太子厩戸皇子)が創建したとも言われていますが、発掘調査によると飛鳥時代の遺構は見つからず、10世紀後半頃に創建したと推定されるそうです。としても平安時代ということになりますから、京都でも屈指の古い寺院ということになります。

ちなみに、六角堂の名称は本堂の形が六角形であることに由来しています。

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写真ではちょっとわかりづらいですが、隣接するビルのエレベーターに昇り、上から見ると、確かに六角形をしていることが確認できます。

六角堂の本堂は明治10年(1877)の再建されました。
六角堂の御詠歌は「わが思う心のうちは六(むつ)の角ただ円(まろ)かれと祈るなりけり」です。「六の角」とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲のことで、これらを捨て去って角を無くし、円満になること、すなわち「六根清浄を願う」という祈りを込めた形と伝えられています。
本尊は聖徳太子の念持仏と伝える如意輪観音坐像で、秘仏とされ安置されています。特に寿命を延ばす、病気を治すなどの健康面でのご利益があるとされ、子宝に恵まれたり、難産を緩和させるといったご利益もあるそうです。

 

太子堂(開山堂)

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境内北東の池の隅に浮かんでいる建物は太子堂と呼ばれ、六角堂を創建した聖徳太子を祀っています。内部には、太子が合掌して「南無仏」と唱える二歳像、父である用明天皇の病気平癒を祈る十六歳像、仏教の受容をめぐって物部守屋と戦った姿を表す騎馬像を安置しています。

淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れました。太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したといわれます。

 

聖徳太子沐浴の古跡~いけばな発祥の地

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太子堂の脇の池の中にある、石でできた井筒は、聖徳太子沐浴の古跡と伝えられる場所です。この池のほとりに、小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、「池坊」と呼ばれるようになりました。代々六角堂の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中でさまざまな工夫を加え、室町時代の「いけばな」成立に至ります。東福寺の禅僧の日記『碧山日録』には、寛正3年(1462)に池坊専慶が花を挿し、京都の人々の間で評判になったことが記されています。

六角堂の隣には華道・池坊流の本部である池坊会館があり、華道展や花供養など華道関係のイベントが年中行われていますし、春のいけばな展に合わせて六角堂の境内でも夜の特別拝観が行われ、花いっぱいの幻想的な空間が広がります。

 

親鸞

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本堂の東に位置するお堂で、浄土真宗の開祖・親鸞聖人が籠ったと言われている建物です。鎌倉時代の初め、比叡山で修行をしていた親鸞は、建仁元年(1201)29歳の時、六角堂に100日参籠するという誓いを立てました。聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せたのです。
参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。そして九十五日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土宗を広めていた法然上人へ弟子入りをし、浄土真宗を開くきっかけとなりました。浄土真宗は現在でも日本で最大の仏教宗派であるため、仏教の歴史が大きく変わった場所といえるでしょう。

 

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親鸞堂の横には親鸞銅像があります。

 

石不動

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不動明王は、大日如来が一切の悪魔を降伏させるために身を変じた存在で、怒りの形相をとり、強い法力を持っています。六角堂の境内には、不動明王の石像と木像をそれぞれ安置する堂が隣接して建っています。石不動は安永9年(1780)刊行の『都名所図会』に描かれているそうです。

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唐崎社

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境内の南東隅にある唐崎社は、六角堂の鎮守です。御祭神の唐崎明神は、「唐崎の松」で有名な琵琶湖畔の唐崎神社(滋賀県大津市)の神様で、比叡山延暦寺とも深い関係があります。かつては明星天子菩薩とも称していました。社殿には、祇園社(八坂神社)と天満宮北野天満宮)の神様が合祀されています。

 

十六羅漢

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羅漢とは、仏の教えを護り伝えることのできる優れた僧侶に与えられた名前です。十六というのは、方位の四方八方を倍にした数で、あらゆる場所に羅漢がいることを意味しています。
六角堂の十六羅漢は、2007年~2008年に池坊専永住職によって安置されたもので、「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践し、いつもにこにこしています。いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあるという教えだそうです。見ているとこちらも自然と笑顔になれます。

また、羅漢の周りにはひねくれて仏教を理解しない邪鬼がいるとされていますが、六角堂の邪鬼は改心し羅漢を守りながら修行に励んでいると言われています。

 

お地蔵さん

境内には多くのお地蔵さんが安置されています。手作りのよだれかけやアクリル製の帽子などを身につけているものも多く、その優しく愛らしい姿は、見ているだけでも心が癒されますね。

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池坊会館入口付近にあるのは、京都御所を守るために北を向いている「北向地蔵」

 

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小さな子供を守ってくれる「わらべ地蔵」

 

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「地蔵山」と呼ばれるお地蔵さんの群像

 

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十六羅漢の横には願いを手のひらにやさしく包み込んで祈る「合掌地蔵」があります。

 

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少し首を傾けられた姿をされた「一言願い地蔵」お参りに来られた人の願いを叶えてあげようかどうしようか考えておられるそうです。

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願いを聞き届けていただけるかは信心次第なので、欲張らず一つだけ願い事をするように、と書かれています。

 

へそ石

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山門をくぐると、右前方の敷石の中央に、中央にまるい穴があいた六角形の石があります。門前の六角通りにあったものを、明治時代初期に門内へ移したもので、六角堂が京都の中心とされたことから、体の中心であるへそになぞらえて「へそ石」と呼ばれています。桓武天皇が都を平安京へ遷す際、六角堂の本堂が通りにかかっていて、都の造営が出来ず困っていました。そこで桓武天皇が本尊の観音様に祈ったところ、六角堂が一夜のうちに自ら約15メートルほど北の現在地へ移動したそうです。もとの位置には六角堂の礎石だけが一つ残ったという伝説から、「本堂古跡の石」ともいいます。

かなりわかりにくいので、見逃し注意です!

 

 

縁結びの六角柳

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平安時代初期、妃になる女性を探していた嵯峨天皇の夢枕に六角堂の如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」とのお告げを受けたため、人を遣わしてみると、柳の下には一人の美しい女性が立っており、天皇はただちに妃として迎えました。この話から「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」という噂が広がり、「縁結びの柳」と呼ばれるようになりました。本堂前の柳二本を一緒に、おみくじで結んでおくと縁結びのご利益があると言われています。

青々と茂った枝が地面すれすれまで伸びる姿から「地ずり柳」とも呼ばれます。

 

鐘楼

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山門の外側、六角通りを隔てた飛地境内に鐘楼が建っています。この鐘は、時計の無かった時代、人々に時刻を告げるため、決まった時刻に撞かれていましたが、戦国時代、京都に戦乱の危機が迫った時にも、この鐘が撞かれたという記録もあります。

ちなみに現在は除夜の鐘以外は全自動で撞かれるそうです。時代の変遷を感じさせますね。

現在の位置は江戸時代初期までさかのぼることができ、周辺の町の人々の信仰を集めた六角堂の特徴をよく表しています。
鐘は第二次世界大戦時の金属供出で失われましたが、昭和29年(1954)に再鋳されました。
平成31年(2019年3月)、本堂及び拝堂とともに京都市指定有形文化財に指定されました。

 

京都の中心 六角堂

室町時代、寛正2年(1461)の飢饉にあたり、人々が集まってくる六角堂の門前で炊き出しがおこなわれました。応仁の乱後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになります。
また、日本を代表する祭礼の一つ、祇園祭山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていました。これらのことから、六角堂は京都の中心と認識されるようになりました。

 

 

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神社仏閣の多い京都の中で、神社は拝観無料の所がほとんどですが、寺院は拝観料が必要な所が多いですよね。しかしこの六角堂は、これだけ見どころ満載なのに、なんと拝観無料なんです!いけばなの聖地、また西国三十三か所の第18番霊場にも名を連ねていることからも、京都の中心として、古くから多くの人々の信仰を集めてきた六角堂。

これからも都会のオアシスとして、疲れた現代人の心を癒し、愛され続けることでしょう。

京都一の繁華街の中にあり、近くには京の台所「錦市場」や、祇園祭の行われる八坂神社、建仁寺なども徒歩圏内なので、一帯の観光コースの一つとしてもおすすめです。

 

近くにある錦天満宮もおすすめです。以下の記事をご覧ください。↓

 

yomurashamroch.hatenablog.com

 



 

 

 

 

 

 

平安神宮・神苑② 神々しい庭園の美が心の平安へと誘う 西神苑・中神苑・東神苑

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京都の観光名所の一つ、平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、かつての平安京を再現した神社です。京都には1000年ほど前から続く大変古い神社仏閣も多いのですが、平安神宮は明治時代に出来た比較的新しい神社だということは、京都の人でも意外と知られていません。

 

今回は、王朝文化をしのばせる壮麗な平安神宮の中で、四季折々に風光明媚な趣を見せるとともに、神々しい風景を織りなす、その名も神苑の西神苑・中神苑そして東神苑をご紹介します。

 

平安神宮の場所

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平安神宮の行き方

平安神宮は、京都市左京区の岡崎にあります。

周辺は緑豊かな岡崎公園、国立近代美術館や動物園といった観光スポットにも恵まれている場所です。

 

今回のスタートは、西神苑からです。

平安神宮神苑は、大極殿の拝殿左側にある神苑受付で入苑料600円を払って入ります。

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平安神宮の境内は拝観無料です。

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大極殿の拝殿左側にに神苑受付がありますので、こちらで入苑料600円を払います。

 

 

受付の左手から神苑へ向かいます。

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こちらの入口から入ります。

 

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入ってすぐは南神苑(平安の苑)です。

詳しくは以下のブログでご紹介しています。↓

yomurashamroch.hatenablog.com

 

順路に従って奥へと進みます。

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 平安神宮神苑は明治時代の代表的な日本庭園として広く内外に知られており、社殿を取り囲むように東・中・西・南の四つの庭からなっています。
総面積約33,000㎡(約10,000坪)の広大な池泉回遊式庭園で、明治の有名な造園家7代目小川治兵衛らの手になるものです。平安京千年の造園技法の粋を結集した庭園として、昭和50年12月に国の名勝に指定されています。

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 西神苑に出ました。花菖蒲と睡蓮が咲き誇っていました。

西神苑平安神宮が創建された明治28年に中神苑とともに造られました。

白虎池を中心にした庭は池の西側に出島、北側には神苑唯一の滝があります。

初夏を彩る池畔の花菖蒲は特に有名で約200種類、約2000株植わっているそうです。

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新緑に映える花菖蒲と光輝く水面のさまは、まさに神々しいという言葉がぴったりで息をのむ美しさでした。

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睡蓮の瑞々しい白さが水面に際立って映えています。

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 どこを切り取っても絵になる美しさです。

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白い鳥が池の出島あたりを歩いていて、花菖蒲の美しさを引き立てていました。

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鳥の写真を撮っていたら、池の向こう側へと飛び立ちました。花菖蒲と池、そして飛び立つ鳥のコラボレーションに震えるような感動を覚えました。

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池の北側には小さな滝があり、涼し気な音を立てていました。

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時間が許すなら、ずっと見ていたい風景でした。

名残惜しい気持ちを押さえて、次の庭園へ向かいます。

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神苑・東神苑へ向かう道は静かな林になっています。

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神苑は西神苑と同じく、平安神宮創建時に作庭されたもので、庭の中央に蒼龍池があります。池の東側の大島(珊瑚島)から北岸にかけて、天正年間の三条・五条大橋の古い石柱や梁を用いた沢飛び、臥龍橋(がりょうきょう)があります。

「龍の背に乗って池に映る空の雲間を舞うかのような気分を味わっていただく」という第七代目小川治兵衛の意図が込められているそうです。

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神苑では池を囲む杜若(かきつばた)が有名です。白地に紫の模様が入り、千代紙で折った鶴をそのままそっと置いたような姿の杜若を、光格天皇が「折り鶴」と名づけ、寵愛されたそうです。残念ながら、今回はもう杜若の時期を過ぎていて写真を撮ることはできませんでしたが、白い睡蓮の花が庭園に清々しい美しさを添えていました。

 

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神苑と東神苑の間をつなぐ水辺には、川底に玉石が敷き込まれており、さわやかなせせらぎの音が…

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最後の庭園は東神苑です。

こちらは東山を借景とし、明治末期から大正初期にかけて造られました。

京都御所から移築された泰平閣(橋殿;はしどの)、並びに尚美館(貴賓館)があります。

写真の左奥に見える屋根つきの橋殿が泰平閣で、右手前の建物が尚美館です。広大な栖鳳池の水面に映る姿が優美ですね。

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その他、栖鳳池には、鶴島、亀島の二島を配し、その周囲には八重紅枝垂れ桜をはじめ、さつき・つばきなど多様な花木が植えられ水面に映る花々は格別の風情を醸しているそうです。今回はさつきしか咲いていませんでしたが、池の水面が周囲の木々の緑を鏡のように映すさまは、どこを切り取っても見飽きない美しさでした。

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橋殿から平安神宮会館に隣接した庭園が見えます。こちらも池に映る木々やさつきの色が見事でした。

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尚美館です。こちらも京都御所から移築されました。

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桜の時期に橋殿から尚美館を臨むと、こんな風景が見られるそうです。木々の緑と桜のピンク色のコントラストが見事ですね。

 

以上で平安神宮の四つの神苑のご紹介を終わります。

四季折々に神々しい風景を見せてくれる神苑は、作庭されてから100年以上経た現在でも、大いなる自然の営みに触れることができ、訪れるたびに心の平安へと誘ってくれる庭園だそうです。また、他の季節にも訪れて、その時々の美しさに触れてみたいと思います。

 

今回は東山駅から平安神宮神苑までを散策し、一時間強でした。大きな坂などはありませんが、平安神宮内は玉砂利や土の道も多いので、歩きやすい靴でお越しください。

平安神宮・神苑① 王朝文化をしのばせる社殿や庭園 東山駅から平安神宮・南神苑まで

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 京都の観光名所の一つ、平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、かつての平安京を再現した神社です。京都には1000年ほど前から続く大変古い神社仏閣も多いのですが、平安神宮は明治時代に出来た比較的新しい神社だということは、京都の人でも意外と知られていません。

今回は王朝文化をしのばせる平安神宮の社殿や庭園をご紹介します。

 

平安神宮の場所

goo.gl

平安神宮の行き方

 

今回のスタートは最寄り駅、地下鉄東西線東山駅」です。

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一番出口から出て三条通を東へ向かいます。

 

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ローソンを過ぎて一つ目の交差点(三条神宮道)を北(左)へ曲がります。

角を曲がると、もう400mほど先に平安神宮の大鳥居が見えています。

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新緑のまぶしい岡崎公園です。朱塗りの大鳥居がひと際鮮やかです。1928年(昭和3年)に、昭和天皇の大礼を記念して建てられました。高さ24m、幅18mにもなり、建設当時は国内最大の鳥居だったと言われています。遠くからでも見逃さないこの特徴的な鳥居は、神宮周辺の岡崎地区のトレードマークとしてなくてはならない存在です。

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仁王門通りを渡ると、鳥居の向かって左側は京都国立近代美術館です。

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大鳥居の向かって右側は京都市京セラ美術館です。

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 京都国立近代美術館の北隣にあるのが、日本初の公立図書館・京都府立図書館です。ここ岡崎の地へ移転されてから110年余り、今、正面に見えている外壁はその当時の姿をとどめています。レトロクラシックな外観が美しいですね…

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京都府立図書館を通り過ぎ、二条通の横断歩道を渡ると向こうに応天門が見えて来ました。

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応天門(重要文化財)です。

平安神宮の社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が約8分の5の規模で再現されています。大極殿(だいごくでん・外拝殿)・応天門(おうてんもん・神門)・蒼龍楼(そうりゅうろう)・白虎楼(びゃっころう)・歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは明治28年(西暦1895年)の創建当時に造営されたものです。
 その後昭和15年(西暦1940年)孝明天皇ご鎮座にあたり、本殿・祝詞殿・神楽殿(かぐらでん・儀式殿)などが増改築され、これまでの社殿も大修理が行われました。また、昭和50年からは主要な建物の屋根葺替が行われ、この間51年に社殿の一部が災禍に会いましたが、54年にはその復興もあわせて完成し現在のような壮麗な社頭が整いました。
 ここを訪れると、今から1200年前、京都が生まれたばかりの風景をさながらに体感し、大宮人の気持ちを追体験できるのだそうです。

では早速、平安神宮の中へ入って行きましょう。

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大極殿重要文化財)です。平安京大内裏の正庁で、即位、朝賀をはじめ国の主要な儀式が行われる中枢です。大極とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示す言葉で、天皇の坐す御殿を意味します。

 

f:id:yomurashamroch:20210620125631j:plain大極殿の左手前に「神苑受付」とありますが、コロナで参拝客が少ないからか、こちらは閉鎖されていました。

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神苑の受付は拝殿の左手にありました。境内の拝観は無料ですが、神苑はこちらで入苑料600円を払います。

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 神苑受付の左手から神苑へ向かいます

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こちらから入っていきます。

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平安神宮神苑は明治時代の代表的な日本庭園として広く内外に知られており、社殿を取り囲むように東・中・西・南の四つの庭からなっています。
総面積約33,000㎡(約10,000坪)の広大な池泉回遊式庭園で、明治の有名な造園家7代目小川治兵衛らの手になるものです。平安京千年の造園技法の粋を結集した庭園として、昭和50年12月に国の名勝に指定されています。

 

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入口を入るとすぐにしだれ桜の名所として有名な南神苑です。

6月だったので、残念ながら桜は見られませんでしたが、満開だったらさぞ華やかだったことと思います。来年は是非しだれ桜を見に来たいものです。

 

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 南神苑は明治28年の平安神宮創建以来、しだれ桜の名所として親しまれてきました。

昭和44年の孝明天皇100年祭の時に、平安時代の特色である野筋(道筋)と遣水が設けられました。また、昭和56年には、平安時代の代表的文学書(竹取物語伊勢物語古今和歌集枕草子源氏物語)に登場する草木、約180種類を植栽して、王朝文化をしのばせる庭「平安の苑(その)」としました。

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四季折々の草木が植えられていて、草木の名前と登場する文学の名称、登場箇所が小さな立て看板にして添えられていましたが、あいにくこの日の平安の苑ではつつじぐらいしか咲いておらず、立て看板の写真も撮り忘れました。

 

あれ?こんな所に電車が…

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この電車は、明治28年8月31日に日本最初の交通輸送業電車として京都電気鉄道が運行し、平安神宮のある岡崎付近にも敷設されていました。日本の電気鉄道の先駆けとして交通事業に貢献してきました。

しかし、明治45年6月に京都市が市営電気軌道(市電)の営業を開始し、大正7年6月に京都市に合併されました。その後時勢の推移から各路線が随時廃止され、昭和37年7月には永年チンチン電車の愛称で親しまれてきたわが国最古の電車もその姿を消すこととなりました。

この電車は当初のもので、平安神宮創建とも深い関係があることから、京都市より払下げを受け、記念としてこちらに保存されているそうです。

 

神苑は季節柄、見どころが無く残念でした。

ネットから美しいしだれ桜の写真を拝借↓

平安神宮の桜の写真素材

平安神宮の桜の写真素材

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コロナ禍が落ち着いたら、人込みを気にすることなく、このように華麗で美しい桜を見に行きたいです。

 

今回のお散歩はここまでです。

次回は引き続き平安神宮の西神苑・中神苑そして東神苑をご紹介します。こちらは季節にぴったりの神々しい庭園の美が広がっていますので、お楽しみに!

 

 

夏越の祓・車折神社の茅の輪くぐり

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●夏越の祓と車折神社

嵐山にほど近い車折神社では、6月になると、茅の輪が本殿入口の鳥居に飾られます。毎年6月の終わりに神社で執り行われる「夏越の祓(なごしのはらえ)」は、一年の前半の半年間の罪や穢れを祓い、残りの半年間の無病息災を祈る神事です。なお、7月から12月の穢れを払うのは大晦日の年越しの祓です。

神社の境内や鳥居の下などに茅(ちがや)の大きな輪が設けられ、八の字を描くように“茅の輪(ちのわ)”をくぐることで厄が落ち、身が清められるそうです。

これは、旅の途中に宿を求めた素戔嗚尊(すさのおのみこと)を、貧しいながらも厚くもてなした蘇民将来(そみんしょうらい)が、その後素戔嗚尊の言った通り、茅の輪を腰につけて疫病を免れたという故事に由来しているそうです。

京都でも主な神社でこの夏越の祓が行われますが、ほとんどが6月30日かその数日前から茅の輪を設置する所が多いのですが、ここ車折神社では6月1日から一か月間茅の輪が設置されています。ピンポイントで6月30日に茅の輪くぐりに訪れるのはスケジュール的に難しい方も、車折神社ならご都合のつく日に茅の輪くぐりが出来ますので、是非訪れてみてはいかがでしょうか・

車折神社は、境内に芸能の神様を祀る「芸能神社」があることで有名ですが、そのほかにもさまざまなご利益のある興味深い神社です。車折神社については以下のブログで詳しくご紹介しています。↓

yomurashamroch.hatenablog.com

 

さて、では早速車折神社の茅の輪くぐりに行きましょう。

今回のスタートは、最寄りの京福嵐山鉄道(嵐電車折駅からです。

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駅を降りると、目の前が車折神社です。

f:id:yomurashamroch:20210620131045j:plainこの日は植木屋さんが境内の木の剪定をされていました。春から初夏にかけて茂った木々が、すっきりと刈り揃えられて夏支度。境内は一段と明るく感じました。

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 車折神社駅から近い方の門からは裏参道になりますが、こちらから入って行きます。

f:id:yomurashamroch:20210620131151j:plain清めの社です。裏参道より本殿入口付近に出る石鳥居の脇にあります。清めの社のご神力(パワー)により、車折神社の境内全体(敷地)は「悪運・悪因縁の浄化」「災厄消除」のご神力が充満しており、全国各地より大勢の方が、厄除け・八方除けのご祈祷を受けに来られるそうです。この日も数人の方がこの清めの社で熱心に拝んだり写真を撮られたりされていました。 

 

車折神社の茅の輪くぐり

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こちらが茅の輪になります。茅の輪くぐりの作法は、神社により違うようです。一般的には、神歌を唱えながら、まず茅の輪を左足からまたぎ、左側からまわって正面へ戻ります。続いて左足から右側へまわり正面へ、さらに左足から左周りで正面へ戻ります。8の字を描くように左・右・左と回ります。最後に左足からまたいで、本殿へ向かいます。

f:id:yomurashamroch:20210620131249j:plain茅の輪の横の建物の壁に貼られていた説明書きです。茅の輪をくぐって心身を清めた後、「人形(ひとがた)」を書くと、気づかぬうちに身についてしまった罪・けがれがことごとく祓われ、運気が大いに上昇するそうです。

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 茅の輪をくぐると、人形(ひとがた)を書く場所が設置されています。

f:id:yomurashamroch:20210620131341j:plain人形は、人の形を模した紙の形代です。夏越の祓では、この人形に自分の名前や年齢を書き、体をなでたり、息を吹きかけたりして罪や穢れを託します。体の悪い部分をこすることで人形に厄を移すといった風習もあるそうです。茅の輪をくぐった後で、人形は身代わりとして神社におさめたり、川に流したり、火で焚き上げたり、神社によって異なるようですが、そのようにして厄を祓い、残り半年の息災を祈願します。

 

車折神社でも、上の写真のように、人形に名前と年齢と性別を書いた後、息を3回吹きかけます。これにより、人形にその人の分魂が宿り、神事の当日、神主がお焚き上げをすることにより「罪・穢れ」が祓い清められ、運気が大いに上昇するそうです。

f:id:yomurashamroch:20210620131407j:plain記入済みの人形は、隣の箱へ入れます。

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人形のお焚き上げ料100円(以上)は、この箱に入れます。

f:id:yomurashamroch:20210620131503j:plain境内では、梅雨時の湿った空気にくちなしの花の甘い香りがより濃密に香っていました。

 

この後、ご本殿にも参拝しました。これで今年半年の穢れをすっかり祓っていただき

残りの半年間を無事に過ごしたいものです。

 

●夏越の祓と水無月

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京都では、6月になると和菓子屋さんをはじめ、スーパーなどでも「水無月」という、白いういろう生地に小豆を乗せた三角形の和菓子が売られ、夏越の祓の行事食として親しまれています。

京都で水無月が食されるようになった由来は、宮中で行われていた「氷の節句」だと言われています。6月1日に行われていた氷の節句では、取り寄せた氷を口に含み、暑気を払って夏を無事に乗り切れるよう祈願されました。しかし庶民にとって氷は高級品で手の届かない物だったため、氷をイメージした三角のういろうに、邪気を払う小豆を乗せた水無月が作られたと言われています。

私も6月に一度は水無月を食べないと、何となく物足りないような気分になります。今年も水無月を食べて、暑気祓いをしたいと思います。

今回のお散歩は車折神社駅からすぐでしたので、15分ほどでした。車折神社からは京福電気鉄道嵐電)で3駅で嵐山駅に着きますし、徒歩でも15分ほどですので、嵐山観光のついでに立ち寄ってみられてはいかがでしょうか。

 

 嵐山周辺のおすすめ情報はこちらをご覧ください↓

 

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旧暦宮中では、冬から氷室で保管していた氷で暑気払いをしていました。しかし、氷は庶民には大変貴重なもの。そこで形を似せた甘いお菓子で、息災を